NHK大河ドラマ『花燃ゆ』あらすじ、杉文に関係する登場人物とは?

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』あらすじ、杉文に関係する登場人物とは?

大河ドラマを楽しむには歴史の知識が必要です。

今回は「花燃ゆ」の舞台である幕末についてわかりやすくお話しします。

「幕末ってどんな時代?」

幕末とは今から160年前、江戸時代の終わりをさします。そのころの日本は鎖国政策をとっていました。

それは、外国への渡航禁止・大型船の造船禁止・キリスト教の布教信仰の禁止・海外渡航の禁止などをさします。しかし、徳川幕府は長崎の出島でオランダや中国と貿易を行い利益を得ていました。

日本の近海に外国船がしばしば現れるようになり、各地の大名は西洋の技術の素晴らしさや貿易で利益を得ることができることを知るようになりました。また同時にアヘン戦争で上海が植民地になってしまったことを知りました。もちろん、このような情報を得ていたのは一部の知識人だけです。「花燃ゆ」に登場する吉田松陰はそんな知識人のひとりでした。

国内では飢饉で餓死者が出たり病気が流行ったりと厳しい状況でした。そんな中で大塩平八郎の乱が起こり、一揆や打ちこわしがしばしば起こりました。また、財政の悪化などのため、社会に不安が広がっていました。

徳川幕府はアメリカに迫られている通商条約締結について、全国の大名に意見を求めました。幕府が大名に相談することなどこれまでなかったことだったので、それ以後、大名や朝廷は政治への発言力を強めたのでした。

そんな中で世論は「開国論」と「攘夷論」とに分かれました。そこに将軍の後継問題が重なり、慶福(のちの家茂)を支持する紀州派と慶喜を支持する一橋派とが対立しました。

そんな中、紀伊派の老中井伊直弼が日米修好通商条約に調印しました。しかし、このことは朝廷の許しを得ていなかったという理由で、大名や朝廷は大いに反発しました。

そんな時、井伊直弼は一橋派や尊王攘夷派の人々を弾圧しました。「花燃ゆ」の主人公「杉文」の兄である吉田松陰は、これに関連して獄死しました。
それが、安政の大獄です。
この強圧政治は尊王攘夷派の激しい反発を招きました。

この時、全国の下級武士・豪商・豪農など、今まで力を持たなかった人達が勢力を伸ばしました。「花燃ゆ」に登場する「杉文」の夫、久坂玄瑞は尊王攘夷を掲げる下級武士でした。

このように、日本国内に不安が広がり対立が明らかになるという時代に入っていきます。

さて、今の山口県である長州藩は藩の政策を尊王攘夷とし、京都の朝廷の周辺で活動を展開していきます。しかし、禁門の変で京都を追われ朝敵とされます。それより先に、攘夷を実行するとの考えで関門海峡の外国船を攻撃するという事件を起こしていました。長州藩は幕府にも外国にも攻撃されるという危機的な状況に陥ります。

「花燃ゆ」の舞台である長州藩にとっての幕末は、そんな八方塞がりの状況だったのです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公「杉文」の兄、吉田松陰について

吉田松陰ってどんな人なのでしょう?

吉田松陰は今の山口県である長門の国(ながとのくに)の城下町萩に産まれます。父は杉百合之助、母は滝(滝子)です。通称は寅次郎といいました。

杉家には兄梅太郎がいたため、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になりました。だから、名字は杉ではなく吉田なのです。しかし、その叔父が亡くなってしまいます。

吉田松陰は、叔父の玉木文之進に教育を受けます。それは厳しい指導だったようです。

子どもであっても山鹿流兵学の師範でしたので、藩主のために講義を行います。その講義はただ暗誦したものではなく、質問にも答えられる素晴らしいものでした。松陰の才能はこの時に認められました。

藩主に認められた松陰は、江戸で遊学しました。当時、身分の高い武士は藩主の参勤について江戸に行き、武芸や学問を学んだものでした。

西洋列国による日本への接近が繰り返された頃、松陰はアヘン戦争で当時の中国である清が植民地となっていることを知りました。そこで、津軽海峡を通行する外国の船を見学したり、その地でどのような防衛が行われているのかを知りたいと考えました。それで友人たちと東北旅行を計画しましたが、長州藩が通行手形を発行するのに手間取りました。しかし、友人との出発の約束を破ることはあってはならないと考え、手形を持たずに出発しました。それは、当時の常識では脱藩するということでした。旅行を終えた松陰は武士の身分を失い、世禄没収という厳しい処分を受けました。

今でいうリストラのようなもの。それでも藩主は松陰に目をかけ、遊学を許しています。藩主に愛された幸せな人だと言えます。

1854年ペリーが日米修好通商条約のため伊豆の下田に来た時のことです。松陰は金子重之輔と一緒に密航を計画し停泊中の船に乗り込みました。しかし、乗船は拒否されます。

その時、乗り捨てた小舟に恩師佐久間象山の手紙があったため、自首しました。その結果投獄されてしまいます。松陰は長州に送り返されました。

萩に帰った松陰は野山獄に幽閉されます。その後、杉家に帰り、叔父が教えていた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地に塾を開きます。

「花燃ゆ」では、松下村塾での教育の日々が取り上げられています。
ここでの門下生は吉田稔麿(よしだとしまろ)、久坂玄瑞(くさかげんずい)・高杉晋作(たかすぎしんさく)山県有朋(やまがたありとも)、伊藤博文(いとうひろぶみ)入江九一(いりえくいち)、前原一誠(まえばらいっせい)、品川弥二郎(しながわやじろう)、などです。高杉晋作は身分の高い武家の息子、伊藤博文は身分の低い中間の息子でした。身分の高い武士は藩校明倫館(めいりんかん)で学びます。高杉晋作は明倫館の学問に満足できず、松下村塾に通いましたが、祖父や父に大反対されていました。一方、伊藤博文などは明倫館に通える身分ではありません。身分制度のはっきりした時代、本来ならば出会うことのない人たちが松下村塾に集いました。それは、松陰の身分を問わないという新しい思想を持っていたからです。

松陰は世界の情勢を説き、時には感情を高ぶらせ声を張り上げて講義をしました。その講義に門下生たちは涙を流して感動したと言われています。また、ここでは身分が違っても議論を交わすことが当然のように行われていました。その中で、お互いを「ぼく」「きみ」と呼び合ったそうです。この呼び方には上下関係が反映されません。

その後、松陰は江戸に呼び戻されます。そこで老中暗殺の計画を企てたことを自首します。それに驚いた幕府は、江戸伝馬町において、吉田松陰を斬首刑としました。

享年30歳でした。

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杉文の夫久坂玄瑞ってどんな人?

久坂玄瑞は長門の国の萩に生まれました。

萩藩医の三男として生まれましたが、次々と家族が病死し、15歳で家族の全員を失っています。

こうして、若くして藩医久坂家の当主となりました。

そのころ、長州藩には好生館という医学所がありました。

そこで医師としての勉強をしました。
家族全員を失い、医学所の寮生として学んだ玄瑞。身長が高く、成績優秀、声が大きく美しく、イケメンである。

恵まれた資質はあっても家族の温もりからは遠いところにいました。

その後、九州に遊学した際、熊本にて松陰の友人である宮部に会いました。

そこで、吉田松陰のもとで学ぶことを勧められ、帰るとすぐに松陰に手紙を書きました。
松陰との文通で、議論を重ねた後、松下村塾に入門します。

そこでは高杉晋作と共に「双璧」と称えられました。

ふたりの素晴らしい人という意味です。

1857年松陰は自分の妹文をこの門下生に嫁がせました。

安政の大獄で松陰が獄死すると、松下村塾内の結束を図ります。

主な活動としては、長州藩の藩論を尊王攘夷に転換させたこと、英国大使館を焼き打ちしたこと、下関でアメリカ船攻撃をしたことです。
そして、最後に京都での禁門の変で激しく戦い自害しました。
過激な尊王攘夷い思想を実践した人と言えます。
さて、1857年杉文と結婚をしたころの話に戻りましょう。結婚後は杉家の文の居室がそのまま新居となりました。しかし、それから1864年に亡くなるまでに、この部屋で過ごしたのは2年に満たなかったのです。西洋医学修行の藩命で江戸に旅立ち、新婚生活はわずか3カ月で打ち切られたのでした。結婚したものの子どもはありませんでした。

そこで養子久米次郎(くめじろう)に久坂家を継がせています。

次の回に書きますが、文の姉寿と小田村素太郎との間に生まれた二男です。
久坂玄瑞が亡くなって時代が明治になった後で、阿武郡の大庄屋大谷忠兵衛(おおたにちゅうべえ)が6歳の男の子を連れて山口藩庁に現れました。

少年の名は秀次郎。

「秀次郎が久坂の忘れ形見であることを保証するから、藩で承認してもらいたい」との話でした。母の名は佐々木ヒロとのことでした。

その後、久坂にもう一人愛人がいたことも発覚しています。

そちらの女性は京都の島原廓の芸者辰路(たつじ)、お辰とも呼ばれています。忘れ形見秀次郎の母はヒロなのかお辰なのか、はっきりしていません。今後の研究で明らかになるといいですね。
久坂が命をかけて戦った京都にそのような女性がいたこと。文はそれを知りどんなに驚いたことでしょう。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公「杉文」の再婚相手小田村素太郎(おだむらもとたろう)ってどんな人でしょう?

吉田松陰や久坂玄随が熱く戦って短い生涯を終えたことに比べ、小田村素太郎は明治まで生き延び、政治家として活躍しています。さて、どのような人だったのでしょう。

小田村素太郎は萩の藩医松島家の次男として産まれています。そして、儒官である小田村家に養子に入っています。松陰も養子に行っていますが、当時武家の二男三男は養子に行くことが多かったようですね。

藩校明倫館に学び、江戸藩邸で大番役として出府します。

江戸では漢学を学びました。この頃、江戸に上って来た松陰と意気投合して仲良くなりました。松陰の東北旅行も陰で支援しています。松陰がペリー艦隊に対して、佐久間象山と対策を練っている頃、松陰の妹寿(ひさ)と萩で婚礼をあげました。松陰は兄の梅太郎から知らせを聞き大喜びしたそうです。
1854年に、長男篤太郎が産まれました。

そして1856年、小田村は外国から江戸をまもるための相模沿岸の警備を命じられました。任務を終えて萩に帰ると、吉田松陰が松下村塾で門下生の教育を行っている最中でした。その頃、松下村塾には数十人の塾生が出入りして最盛期を迎えていました。小田村も松下村塾の相談役を引き受けましたが、忙しくてなかなか手が回りませんでした。

1857年、久坂玄瑞と文が結婚しました。この時、寿は身重でした。翌年5月二男久米太郎が産まれています。前回に書いた通り、この久米太郎は久坂と文の養子となりました。

1860年山口講習堂などで教育にあたります。その後は、藩主に従って江戸や京都そして萩の間を走り回ります。禁門の変の後、長州藩の内紛で投獄されます。その後は、長州征伐の幕府軍と戦い、明治を迎えると政治の世界に入ります。群馬県令、今で言う群馬県知事や貴族院議員、内親王御養育主任などの仕事をしました。

1867年、小田村は改名して楫取素彦(かとりもとひこ)となりました。明治時代に政治の世界で活躍したのは楫取という名前で行いました。長州藩士は幕府を助ける人達に命を狙われることがありました。有名な新撰組も長州藩士をドブネズミのように追いかけ斬っています。したがって、明治維新の前に改名した人が非常に多いようです。

さて、小田村の兄である松島剛蔵は尊王攘夷の志士として活躍しましたが、長州藩内の内紛で処刑されています。身近な人が次々と亡くなるのを見届けた幕末でした。その後、脳溢血とその後遺症に苦しんだ妻が亡くなり、妻の妹である杉文と再婚しました。

いよいよ杉文(すぎふみ)です。一体どんな人なのでしょう?

文が産まれた時の杉家にはどんな人がいたのでしょうか。

1843年2月、長門の国萩、東郊護国山のふところ、団子岩のある山宅です。

父 杉百合之助 40歳 萩藩士

母 滝 37歳

兄 梅太郎(民治)16歳

二男 寅次郎(吉田松陰)14歳

姉 千代(芳子)11歳

姉 寿(久子)5歳

この家族に文は迎えられました。寿の下にもうひとり姉がいましたが、亡くなっていました。2年後に弟敏太郎が生まれました。敏太郎は口をきくことがなかったそうです。

1855年、野山獄から松陰が出獄したころ、文は13歳でした。ずっと離れて暮らしていた兄が、やっと身近な存在になったのです。

兄の松陰が松下村塾を開き、門下生が増えていきました。始めは杉家の3畳の部屋で講義をしていましたが、だんだん手狭になり、その後小屋を改修しましたが、それでも狭くなり、とうとう弟子たちの手で10畳の間が建て増しされました。

塾の謝礼はある時払いの催促なしで、家でできた野菜などを持ってくる者もいました。したがって、世話をする滝や文は苦労したことでしょう。松陰と塾生たちは一緒に沢庵茶漬けなどを食べたという記録があります。10代前半の文はその世話を一生懸命に行っていたと思われます。

1857年12月、久坂玄瑞18歳、文15歳2人は結婚しました。
しかし、新婚生活は3カ月で打ち切られています。久坂は親も兄弟も亡くなっており、文は杉家での生活を続けました。姉の子久米次郎を養子として貰い受け、大切に育てます。

やがて、夫久坂が亡くなり、明治になって忘れ形見の秀次郎が現れます。

父が亡くなり弟が亡くなるという不幸に見舞われ、その後萩の乱で親戚の若者がふたり命を落とすなど、悲しい出来事が重なりました。

そんな中で、忘れ形見の秀次郎に久坂家の家督を譲り、養子であった姉の子ども久米次郎も改名して道明となり、久坂家の養子縁組を解消して楫取家に引き取りました。

姉寿は群馬県令となっている楫取のそばにいましたが、脳溢血で倒れ半身の麻痺が進んでいました。寿は夫を高崎の県庁官舎において東京の平河原の屋敷に移りました。

そこで文が姉の看病のために上京します。そして、姉の寿が亡くなりました。

母の瀧は文に楫取との再婚をすすめましたが、文はなかなか承知しません。 やっと承諾したのは2年後のことでした。

楫取素彦55歳、文41歳。戸籍の上でも文の名を改め、美和子という名前に変わりました。

やがて楫取は東京で宮中顧問官となりましたが、仕えていた宮様がお亡くなりになると全ての公職を辞して山口県の三田尻に家をたてました。ふたりは山口県の今の防府市で余生を過ごします。

楫取素彦は84歳で生涯を閉じ、美和子はそれから9年、三田尻の家で茶道を楽しみ読書をして暮らしました。そして、1921年79歳で永眠しました。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物「桂小五郎」について

桂小五郎は長州藩士の中でも殿の血縁であるエリートの家柄でした。

しかし、「逃げの小五郎」と呼ばれ臆病者であると言われていました。どんな人物なのでしょう。

小五郎は10代のころは文武両道の秀才でした。吉田松陰から兵学を学び親交がありました。

20代で江戸に来てからは、練兵館の塾頭をこなし、西洋兵学・造船学・英語などを積極的に学びます。

江戸において、松陰の処刑を知り、長州藩の若い志士と討幕攘夷を企てます。水戸藩の浪士などと親交を深め、共に攘夷を行おうと約束します。その頃、部下として使っていたのが伊藤俊輔、後の伊藤博文です。

その後、京都に行きます。久坂玄随らとともに尊王攘夷の活動を行います。京都では、公家や大名たちと意見交換をしました。もちろん、宴席も多かったようです。
小五郎は 身長が6尺(170センチ)もあり、イケメンだったため、芸妓たちから人気がありました。
勝海舟や坂本龍馬・横井小楠らと交流を持ち、新しい世の中について一緒に考えていきました。その頃、長州藩は発言力があり天皇に行幸をしてはどうかなどと提案していました。

しかし、当時の天皇は危険な行幸をするのをためらい、密かに悩んでいました。それで8月18日の政変が起こりました。長州藩に関わる人が京から追放されました。この時、新撰組は長州藩に関わる人を斬り殺していきました。

その頃、長州藩では4カ国艦隊との海戦がありました。イギリス・アメリカ・フランス・オランダの軍艦が下関に責めてきたのです。もちろん、きっかけは長州になり、先に攘夷行動として外国船を攻撃していたのです。

幕府による長州征伐の布告もあり、禁門の変が起こりました。長州藩の名誉を守るため、血気盛んな藩士が先走って行動したともいえます。この禁門の変を防ぐことができず、小五郎は二条大橋のたもとに隠れます。このようなことが何度かあり「逃げの小五郎」と不名誉なあだ名がついてしまいました。

二条大橋のたもとには、芸妓幾松が握り飯の差し入れにきてくれました。それが後の妻木戸松子です。その後、生命の危険があったため、丹波に潜伏しました。

禁門の変は、長州が朝廷の敵ではないことを訴えるための行動だったにも関わらず、多くの藩士の命を失ってしまうという悲劇となりました。

そのような、どうしようもない状況の中で、長州藩の中では幕府恭順派の椋梨藤太らが力をつけ、尊王攘夷を訴えていた家老などを処罰していきます。藩内で内輪もめが起こったのです。 そこで、高杉晋作が立ち上がり、正義派の政権を復活させました。

高杉らの願いで桂小五郎は長州に呼び戻され、再び政治の世界で活躍します。

情勢は明治維新へと突入し、桂小五郎は、木戸孝允(きどたかよし)と改名して明治政府での仕事をしていくのです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物「高杉晋作」について

高杉晋作は身分の高い家の生まれで、それも長男でした。松下村塾の他の塾生は、武士といえども身分の低い者が多かったのです。高杉はどんな生涯を歩むのでしょう。

高杉晋作は1839年(天保10年)、萩城下の菊屋横丁で生まれました。父の小忠太は真面目な役人、祖父の春豊は力のある役人でした。父も祖父も藩主のお側に仕える仕事をしており、晋作にもそれが望まれていました。

しかし、父は仕事で家を開けることが多く、跡取り息子の晋作は過保護にわがままに育ちました。藩校明倫館に学びましたが、字句の解釈を延々と行うような学問は嫌いだと身を入れることがなく、成績はぱっとしませんでした。ただ、武芸は好んだようです。

吉田松陰の松下村塾に通いましたが、祖父も父も大反対。「罪者の塾になど入るのではない」というのです。それで、晋作は仕方なく家族に隠れて通っていました。

松下村塾で松陰先生と出会ったことで、晋作は学問に興味を持ちます。カビの生えたような時代に合わない学問ではなく、世界の情勢などの実際的な学問だったからです。晋作は大いに喜び、真剣に学び、松陰に認められるまでに進みました。

強い希望で江戸遊学を認められ、幕府の昌平坂学問所に入りましたが、そこでの学問は明倫館同様、熱くなれないものでした。学友と芝居を見に行くなど楽しんでいたようです。

高杉は藩主へ願い出て、東北へ遊学したり上海へ渡航したりしました。

上海では太平天国の乱を見ます。
そして、清が諸外国の植民地になる様子を見て衝撃を受けます。そこで尊王攘夷の志をたてるのです。外国公使の暗殺計画を立てたり、英国公使館を焼き討ちしたりしました。また、吉田松陰の遺骨を改葬しました。その時に、幕府を挑発する行動をとったため、長州藩は高杉を萩に帰しました。

萩に帰ると、松陰の教え通り親に孝行し結婚します。萩で一番の美人まさと結婚し、東一という息子を得ました。

1863年(文久3年)長州藩は下関沖で外国船を砲撃します。しかし、外国からの報復を受け、敗北します。攘夷を実行したものの、外国の軍事力には叶わないことを実感した出来事でした。

同年、晋作は奇兵隊を創設します。奇兵隊とは藩士に加えて農民や町民を加えた混成部隊です。これは当時の常識では考えられない画期的なことでした。

高杉は4カ国連合と仲直りしなくてはならないため、講和交渉を伊藤俊輔などと一緒に行います。そして、禁門の変の後、幕府恭順を訴える藩政府を嘆きます。その間、藩のお金で外国からミレネー銃などを買い、軍事演習を行っていました。

そして、いよいよ1864年(元治元年)長州藩の内部での戦争を起こします。敵は椋梨藤太を中心にした長州藩政府。高杉と伊藤俊輔は味方も少ないなかで決起し、近代兵器を使った戦いをするのです。誰もが勝ち目がないと思ったこの戦争に勝ち、近代兵器の優位性が証明され、歴史は明治維新へとなだれ込んでいきます。
残念なことに、高杉は29歳の若さで肺結核のため亡くなります。晩年は愛妾おうのとひっそりと暮らしていましたが、萩の正妻まさが乗り込んでくるという出来事もあり、気の休まる暇もなかったことでしょう。
その高杉の熱い意気込みを受け継いだ伊藤俊輔が、博文として明治の政治をになっていきました。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物「周布政之助」について

お酒が好きなことで有名な周布政之助です。最後は自刃とのこと、どのような人生だったのでしょう。

長州藩には長年に積もり積もった大変な借金がありました。何十年かかっても返せそうにない借金。それを徹底した節約とリストラで解決し、借金を返済したばかりか裏金まで作った人が村田清風です。周布政之助はその清風の後継者として長州藩の政治の中心にいました。

長州藩が尊王攘夷に突き進んでいった理由は、藩内改革です。

周布政之助の政敵は、幕府でも外国でもなく椋梨藤太を中心とした長州藩の同僚、幕府恭順派です。

先例を何より重んじ、幕府の機嫌をそこねないことだけに心を砕いた彼らは、萩の政治や教育を牛耳っていました。それを問題視した人が周布政之助です。

吉田松陰が自分の考えを現わすことができたのも、藩主に大事にされ、罪人といえども大目に見られたもの、周布政之助の存在があったからです。

周布がいなければ、松陰の友といえる桂小五郎も活躍できず、門下生の高杉や久坂玄随などもなにも出来なかったでしょう。周布政之助の先を見る力、そして態度こそ一直線に明治維新に通じたものです。

さて、周布政之助は1823年(文政6年)に生まれます。5男1女の末子でした。しかし、出生後、長男が死去。その他の兄は養子入りが決まっていたり、早世したりしたため、生後6カ月で家督を相続することになりました。したがって、政之助は赤ちゃんの時から周布家の跡取りとして、大切に育てられたのです。
25歳で椋梨藤太の添え役となり。31歳で政務役筆頭となります。
1962年(文久2年)藩論を尊王攘夷に統一しました。そのねらいこそ、対外的な圧力で長州藩の改革を実施しようとしたのです。幕府や異国を敵にすることで、藩の体制を集権化し、洋式軍事改革を実施しました。また、軍艦などの船を造ったり買ったりしました。長州藩は異国や幕府と戦える力をつけていったのです。

しかし、禁門の変で長州藩が破れると、周布政之助は責任を痛感し、切腹しました。この時、精神状態が不安定だったとも言われています。

周布政之助の亡き後は、当然幕府恭順派が力をつけました。椋梨藤太は開明派と呼ばれる周布派の家老をつぎつぎと切腹させました。そして、藩主親子を蟄居させました。そして、幕府に許しを得ようとしたのです。しかし、椋梨は高杉晋作に仇をとられることになるのです。

さて、お酒が好きな周布ですので、酒癖についてもいろいろ言われました。土佐藩主山内容堂に暴言を浴びせたり、お酒に酔って大声を出して騒いだりしたそうです。

お酒の失敗はいつの時代にもあったのですね。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物「伊藤博文」について

明治政府において、初代総理大臣となった伊藤博文。

彼は貧しい農家の生まれでした。

松下村塾で出世への階段を登りはじめた伊藤博文。どんな生涯だったのでしょう。

長門の国、束荷村において1841年(天保12年)、林利助として生まれます。父十蔵、母琴の一人っ子でした。父が借金をしたため、生活再建をめざして萩に奉公に出ます。利助は母の実家で暮らします。父のいない幼少期でした。

その後、父は萩での働きを認められ、伊藤家の養子になります。伊藤家は下級武士だったため、利助も父と同様に身分を得ました。

嘉永6年(1853)ペリーが浦和に来航し、翌年に日米和親条約が締結され、下田・箱館の2港が開港されました。その後幕府は諸藩に江戸湾内海・相模・房総の沿岸の警備を命じました。

長州藩も鎌倉郡の一部と三浦郡の全部の警備担当となり、相模沿岸警備として国元に軍事動員がかけられました。その中に利助の名前もありました。

相模では、来原良蔵(くるはらりょうぞう)の部下となりました。
来原は桂小五郎の義理の兄です。
来原に文武を仕込まれ、見込みがあるやつだとお墨付きを頂き、松下村塾に入門します。

松下村塾には吉田稔麿、久坂玄瑞・高杉晋作・山県有朋・入江九一・前原一誠らがいました。彼らは歴史の流れの中で、利助と深く関わっていくことになります。

利助は、松陰にも認められ、京都探索や長崎出張に出ます。そして、江戸の藩邸で働くことになります。江戸では桂小五郎の部下となり、尊王攘夷運動に入っていきます。しかし、身分の高い侍の子弟が遊学として、塾に通ったり武芸を磨いたりするのとは違い、藩邸の事務の仕事や桂の使いの仕事をしていました。そこが高杉晋作とは大いに異なるところです。

利助の最大のラッキーはイギリス留学のメンバーになれたことです。ロンドンで長州5と呼ばれた長州藩の留学生のひとりとして、渡航します。船旅はとても辛いものでした。しかも、留学半年で、長州藩と4カ国艦隊の戦争を知り、井上馨と帰国の途につきます。

帰国した利助と井上は、高杉晋作と一緒に4カ国艦隊との講和交渉の仕事をします。ここで、利助の英語力が役に立ちます。

交渉成立後が外国人との通訳の仕事をするために下関に滞在します。そこで梅子と知り合い結婚します。

長州藩内の戦争では、決起するという高杉のたったひとりの理解者となり、戦場に従います。幕府恭順派の椋梨らに勝利し、明治維新へと駆けて行きます。

維新後は、神戸知事となったり、総理大臣や議会の議長となったりと活躍していきます。最後はハルピンにて暗殺されるのです。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の登場人物「毛利敬親」について

毛利敬親は長州萩藩の藩主です。何を上申しても「そうせい」としか言わないお殿様とのイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。

1819年(文政2年)側室政の子として生まれました。
1836年、長州藩には言えない秘密がありました。10代藩主、11代藩主、12代藩主が相次いで亡くなったのです。後継ぎが決まっていない場合は、幕府により藩を取りつぶされることになっていました。

まさにこの時、後継ぎが決まっていないのに、藩主が亡くなってしまったのでした。

葬儀の費用にも心配な経済難のなか、多くの問題を抱えた長州藩主の養嗣子として、敬親は襲封したのでした。

1838年(天保9年)、萩入りする。村田清風を登用して藩政改革を行います。

長州藩では借銀8万貫目という莫大な借金が明らかとなっており、村田は厳しい財政立て直しを行いました。
例えば、村の特産品を藩の専売としました。百姓にとっては、貨幣を得るための特産品を安く買いたたかれ、収入は減る一方でした。
また、下関の港に税金をかけました。また、役人をリストラしたり、給料を減らしたりして痛みを分け合いました。

その成果が出て、秘密の裏金も作られていきました。その裏金は撫育方(ぶいくがた)と呼ばれ、藩主の権限で使われていました。

したがって、敬親の裁量で使えるお金はたっぷりあったと思われます。このお金が討幕のための軍事費に当てられました。

江戸に藩校有備館を建設し、萩においては、明倫館を改革しました。教育に力を注いだことがわかります。
村田清風の死後、坪井九右衛門を登用しました。
航海遠略策は朝廷と幕府を強調させる考えで、長州藩の長井雅楽(ながいうた)が提唱していました。しかし、これが失敗に終わると、藩論が「尊王攘夷」に変わり、周布政之助を登用しました。
以後、周布政之助を重んじ、藩の集権化を強めたり、洋式軍事を取り入れたりしました。

8月18日の政変、池田屋事件、禁門の変、4カ国艦隊の下関戦争、高杉晋作の功山寺挙兵(内戦)そして幕府による長州征伐など多くの事件を藩主として乗り越えました。
これらの一大事にも、部下の言葉に耳を傾け「そうせい」と言った人でした。
最終的には高杉が創設した奇兵隊などの諸隊を導入し、西洋式軍制を採用し、第2次長州征伐に勝利しました。そして、薩摩藩らと官軍として上京。王政復古を成功させます。
明治2年、版籍奉還を奏請しました。明治4年、山口藩庁で死去しました。

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