語られざる天才――ハンニバルは世界中の戦術家に影響を与えている

今回注目の内容は語られざる天才――ハンニバルは世界中の戦術家に影響を与えているです

「天才」という言葉を聞いてどのような人物を思い浮かべるでしょうか?

多くのレオナルド・ダ・ヴィンチ、アルベルト・アインシュタイン、トーマス・エジソンなどを挙げるのではないかと思います。

ですが、ここでご紹介したいのは、偉大な実績・功績がありながらも、あまり語られることのない少しマイナーな天才たちです。

そして、一人目としてカルタゴの将軍ハンニバル・バルカを取り上げたいと思います。

「ハンニバル」といえばハンニバル・レクター博士を主役とした映画『ハンニバル』の方が現在では有名かもしれませんが、ハンニバル・バルカは「天才」という名に最も相応しい戦術家の一人です。
ハンニバルは、紀元前247年にカルタゴ(現在のチュニジア)に将軍ハミルカル・バルカの長男として生まれました。

当時、カルタゴは共和政ローマと争っており、父ハミルカルもローマとの第一次ポエニ戦争で活躍しました。

ですが、ハミルカルの活躍もむなしくカルタゴはローマに敗れてしまいます。

成長したハンニバルも父の後を継ぎローマとの戦いに身を投じていきます。

そして、紀元前218年ハンニバルはヒスパニア(イベリア半島)と南ガリア(フランス南部)を通ってイタリアを急襲する作戦を実行するためにカルタゴを出発。

宿敵・ローマとの第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)が勃発することとなるのです。
多くの方はハンニバルは知らなくとも、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトのことはご存知だと思います。

ナポレオンは、アルプス山脈を越え北イタリアに侵入する奇襲作戦を行います。

このときの様子を描いたのがダヴィド作の有名な『アルプス越えのナポレオン』です。

この絵をよく見てみると中央に描かれた白馬に乗ったナポレオンの足元の岩に3つの名前が刻まれているのが分かります。

一番上にあるのは「BONAPARTE」、その下に「HANNIBAL」、「KAROLVS MAGNVS IMP」。

「BONAPARTE」とはもちろんナポレオンのことで、「KAROLVS MAGNVS IMP」とはフランク王国のカール大帝、「HANNIBAL」とはハンニバル・バルカのことです。

ハンニバルは、イタリアへと向かう途中で困難なアルプス越えに挑み成功させました。

カール大帝もアルプス越えを行なっています。

この絵画にはナポレオンがアルプス越えを行ったことのある偉大な先人の後継者であることが示されているのです。

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ハンニバルはアルプス山脈を越え、イタリアへと侵入します。

ハンニバルがどのようなルートでアルプスを越えたのかは未だに分かっておらず、歴史家の間でも意見が分かれています。

とはいえ、アルプス越えが過酷であったのは確かです。

アルプスの険しい山道を進む兵士を襲う寒さや疲労で90000の歩兵と12000の騎兵、それに37頭の像でカルタゴ・ノウァを出発したハンニバルの軍勢は、アルプスを越えた後には、20000の歩兵と4000の騎兵、数頭の像にまで減っていました。

イタリアに入ったハンニバルは、消耗した自軍の回復と戦力の増強に努めます。

そして、紀元前218年のトレビアの戦いと紀元前217年のトラシメヌス湖畔の戦いで相次いでローマ軍に勝利し、快進撃を続けるのです。

そして、紀元前216年8月2日、ハンニバル率いるカルタゴ軍はイタリア半島南東部でカンネー(カンナエ)でローマ軍と激突。

ここに軍事史上に名高いカンネーの戦いが勃発しました。
戦闘で最も陥りたくな状況、戦っている兵士が最も絶望的になる状態とは何だと思われるでしょうか?

おそらく敵軍に包囲された状況ではないかと思います。

囲まれた敵に四方から容赦なく攻撃されれば、いくら優秀な兵士が揃っていたとしても勝利することはできないでしょう。

それどころか、部隊そのものが壊滅し、大損害を被ってしまう可能性が高いです。

もっとも、相手を包囲することは簡単なことではありません。

相手も必死に包囲されることを避けようとします。

ところが、ハンニバルは兵力が圧倒的に劣っているにもかかわらず、包囲殲滅に挑むのです。
カンネーで激突した両軍の戦力は次のようなものでした。

ローマ軍は40000のローマ歩兵、40000の同盟国歩兵、2400のローマ騎兵、4000の同盟国騎兵の総勢86400でした。

これに対してカルタゴ軍は、32000の重装歩兵、8000の軽装歩兵、10000の騎兵の総勢50000です。

兵力からするとカルタゴ軍は不利な状況にありました。

しかも、ローマ軍の重装歩兵は強力であり、そのことはハンニバル自身も熟知しています。

このような兵力差がある状況で、ハンニバルは一体どのようにして包囲殲滅作戦を行なおうとしたのでしょうか?

一見すると不可能であるように思える状況にありながら、ハンニバルの才能が不可能を可能にすることになります。

後世にも語れ継がれる作戦を成功させたハンニバルの天才ぶりがここに発揮されたのです。

ハンニバルの作戦のカギは部隊の配置にありました。

当時の部隊配置は、一般的に中央に歩兵部隊が配置され、その両翼(左右)に騎兵が置かれるます。

ローマ軍の配置も同様のもので、主力である重装歩兵部隊を中央に配置し、右翼をローマ騎兵、左翼を同盟国騎兵が固めました。

作戦は、もちろん強力な重装歩兵による中央突破です。

これに対して、ハンニバルは部隊の強弱を考慮して配置していきます。

まず、中央に歩兵部隊を弓なりに湾曲させて配置し、弱いヒスパニア・ガリア歩兵を最も攻撃が集中する中央に置きます。

そして、弓なりになった歩兵部隊の左右両側に屈強なカルタゴ歩兵を配置。

歩兵部隊の両翼には、ローマ軍に対して数的にも質的にも優位である騎兵部隊を配置し、右翼にヌミディア騎兵、左翼にヒスパニア・ガリア騎兵を置きました。

ポイントは、両翼の騎兵にあります。

ローマ軍の強力な重装歩兵に中央の部隊が押し込まれることを前提にしながら、ローマ軍に対して優位な騎兵の機動力を活かし敵軍の包囲を完成させるのです。
この陣容でぶつかった両軍の結果はどうなったのでしょうか?

当然、強力な中央のローマ軍の重装歩兵はカルタゴ軍の先端に位置しているヒスパニア・ガリア歩兵を圧倒し押し込んで行きましたが、弓なりになった歩兵部隊の両側のカルタゴ兵はローマ軍の前進を受けとめました。

結果として、カルタゴ軍は半円状になってローマ軍をに受けとめるような形になりました。

一方、両翼の騎兵はカルタゴ軍がローマ軍を圧倒していきます。

まず、カルタゴ軍の左翼のヒスパニア・ガリア騎兵がローマ軍の右翼のローマ騎兵を圧倒し、ローマ騎兵を敗走させた後、カルタゴ軍の右翼のヌミディア騎兵と互角の戦いを見せていたローマ軍左翼の同盟国騎兵の後方から襲い掛かりました。

挟撃された同盟国騎兵はたまらず敗走を余儀なくされます。

こうして、ローマ軍の両翼を撃破したカルタゴ軍の騎兵は、方向を転じカルタゴ軍を押し込んでいたローマ軍の重装歩兵の後方から攻撃をしかけました。

優勢に戦っていたはずのローマ軍の重装歩兵は、気がつくとカルタゴ軍に包囲されていたのです。

完全に包囲されてしまったローマ軍は大混乱に陥り、逃げることもできず次々と命を落としていきました。

ローマ軍の損害は死傷者が60000人、そのうち大半が戦死だったと言われています。

ハンニバルは、軍事史上に名高い2倍近い敵を包囲殲滅させるという離れ業をやってのけたのです。

ローマ軍に大勝したハンニバルでしたが、時代は彼に味方をしませんでした。

ローマは、ハンニバルとの直接対決を避け、カルタゴ領のシチリアやイスパニアを攻撃し、さらには強力な海軍力でもって制海権を握り、ハンニバルとカルタゴ本国との連絡を絶ちます。

そして、名将スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)率いるローマ軍がアフリカへと上陸。

たまらずハンニバルは、カルタゴへと戻り北アフリカのザマでスキピオと対決しました。

ここに第二次ポエニ戦争の趨勢を決定したザマの戦いが起こったのです。
スキピオはカンネーの戦いにおけるローマ軍の敗戦から騎兵の重要さを認識し、騎兵部隊を育成・準備していました。

対して、ハンニバルは騎兵を調達できず、ローマ軍の騎兵8700に対してカルタゴ軍の騎兵は3000と数的に不利な状況に追い込まれたのです。

そして、カルタゴ軍は、カンネーの戦いとは全く逆に、ローマ軍によって包囲され敗れ去ります。

スキピオは、騎兵の機動力を活かし、カンネーの包囲を再現したのです。

この戦いの結果、第二次ポエニ戦争はローマの勝利に終わり、ローマは地中海における覇権を確立しました。

そして、後の第三次ポエニ戦争でカルタゴは滅亡することとなるのです。
戦後、ハンニバルは政治家としてカルタゴの再建に努めましたが、彼を疎む反ハンニバル派に国を追われ、晩年は亡命生活を送ることを余儀なくされました。

そして、最期はローマの追っ手から逃れる途中で、自ら命を絶たのです。

稀代の天才戦術家の最期は悲劇的なものでした。
後年、ハンニバルは、最大のライバルであったスキピオと再会したエピソードが伝えられています。

スキピオはハンニバルに、「もっとも偉大な指揮官は誰か?」と尋ねました。

ハンニバルの答えは「1番がアレクサンドロス大王、2番がエピロスの王・ピュロス、そして3番が自分だ」というものでした。

そこで、スキピオはさらに「もし、あなたがザマで勝っていたら?」と訊きました。

すると、「その場合は、アレクサンドロスを越えて私が1番になっていただろう」と答えたそうです。

この話の真偽は定かではありませんが、ハンニバルの人柄を示す面白いエピソードではないでしょうか。
ハンニバルのカンネーでの戦術は、後年の戦術に多くの影響を与えています。

ドイツ帝国の参謀総長であったアルフレート・フォン・シュリーフェンはハンニバルの戦術をもとにして対仏侵攻作戦計画「シュリーフェン・プラン」を立案しましたし、奉天会戦では日本軍が、スターリングラードの戦いではソ連軍がカンネーの戦術を参考に作戦を実施しています。

そして、今なお包囲殲滅作戦の理想像として陸軍陸軍士官では必ず教えられ、世界中の戦術家に影響を与えているのです。

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