リシュリューとは?「フランス」という近代国家の礎を築いた

リシュリューとは?「フランス」という近代国家の礎を築いた

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①語られざる天才世界史――リシュリュー

リシュリューは、そこそこの知名度がありながらも、悪い印象が強い人物なのではないかと思います。

というのも、アレクサンドル・デュマの小説『三銃士』では、ダルタニアンと三銃士たちの敵役として描かれているからです。

ですが、彼こそが「フランス」という近代国家の礎を築いた人物であることはあまり知られていません。
『三銃士』でも「枢機卿」と呼ばれているように、フランス西部の下級貴族の三男として生まれたリシュリュー(アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー)は聖職者の道を進みましたが、同時に政界へも進出します。

様々な策謀が巡る宮廷でリシュリューは何度も危機を迎え失脚したりもしますが、1622年に枢機卿に任じられ、2年後の1624年にはついに首席大臣(宰相)となります。

リシュリューは最高権力者となったのですが、彼が本当に危機的な状況に陥るのはこれからでした。

国内では国王の母マリー・ド・メディシスや大貴族、プロテスタントの抵抗・反乱、国外では三十年戦争というまさに内憂外患の状態で国家の舵取りを任されることとなったためです。
国家を率いる立場となったリシュリューでしたが、彼の方針は一貫していました。

それは「国家理性」の追求です。

「国家理性」というと耳慣れない非常に難しい言葉のように聞こえますが、要は「国益を追求する」ということでして、国内においては王様の権力(王権)を強化し、対外的にはハプスブルク家(神聖ローマ帝国とスペイン)に対抗するというリシュリューの政策もまさに「国家理性」に基づいていました。

「国益の追求」なんて国家の指導者としては当たり前だと思われるかもしれませんが、当時はしばしば「国益」よりも「宗教的な信条」のような「理念」が優先されていたのです。
1517年にドイツで始まった宗教改革は、ヨーロッパ中に広まり、それまで同一の宗教を信仰していた人々は、カトリックとプロテスタントに分裂し、互いに争うようになっており、やがて三十年戦争へとつながっていきました。

フランス国内でもユグノーと呼ばれたプロテスタントとカトリックの間で宗教戦争が起こり、リシュリューの時代には両者の間で一応の決着がついていましたが、依然として争いは続いていたのです。
ですが、枢機卿というカトリック教会において教皇に次ぐ高い位にありながらも、リシュリューにとって優先すべきだったのは、「プロテスタントに対するカトリックの優位」ではなく、あくまでも「国益」だったのです。

②語られざる天才――リシュリュー

では、ここからは実際にリシュリューがどのような政策を行なったのか見てみましょう。

まずは、国内からです。

上記のように内政におけるリシュリューの目標は「王権の強化」でしたが、妨げとなっていたのは強い力を持った大貴族とラ・ロシェルのプロテスタントです。
まず、リシュリューは国防のために必要不可欠なものを除いて2000以上もの城塞の破壊を命じ、大貴族が反乱を起こしても城塞を使用できないようにしたりと、貴族の権力を弱体化させようとしました。

もちろん貴族たちの反発を招き、大きな反乱も起こりますが、リシュリューは敵対者を徹底的に弾圧し王権の強化につなげたのです。
ですが、それ以上に懸案事項となっていたのがプロテスタントの問題です。

ユグノーはフランス西部の港湾都市ラ・ロシェルを根拠地として、中央政府に対してたびたび反乱を起こしており、リシュリューにとってはこのユグノーを制圧することが喫緊の課題となっていました。

それに何よりも厄介だったのは、ラ・ロシェルのユグノーたちがイギリスの援助を受けていたことです。

フランス国内の問題に他国の介入を許すのは、王権強化のためには絶対に見逃すことができません。

1627年、リシュリューは自ら軍隊を率い、ラ・ロシェルを包囲します。

イギリスは救援部隊を2度にわたって派遣しましたが、失敗に終わり、一年間以上にわたる包囲の末、ついにラ・ロシェルは陥落。これを期に、国内のユグノーの反乱は沈静化し、リシュリューは王権強化の最大の障壁の一つを乗越えることに成功したのです。

もっともリシュリューは反乱を起こしたユグノーを厳しく弾圧したのですが、それは「宗教的な信条」のためではありません。

あくまでも、目的は王権の強化であったのであり、その証拠にその後もプロテスタントに対しては従来通りの信仰の自由を認めています。
こうして、ユグノーの反乱を見事に鎮圧したリシュリューでしたが、この後で、彼の人生にとって最大の危機が訪れることになります。

というのも、一見すると思うように権力をふるっているように見えるリシュリューなのですが、実際には彼は非常に不安定な立場にあったからです。

リシュリューは国王ルイ13世の宰相だからこそ力を持っているのです。

ですので、リシュリューの命運は国王の支持があるかどうかにかかっており、仮に、国王の信頼を失ってしまえば、彼はたちまち権力の座から追われてしまうことになってしまいます。

③語られざる天才――リシュリュ

リシュリューが最も恐れていた事態に陥ったのは、1630年のことでした。かつての支援者(パトロン)であった母后マリー・ド・メディシスが、リシュリューと対立していた国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックと結託してリシュリューの失脚を謀ったのです。

マリー・ド・メディシスは、王弟オルレアン公ガストンと共にルイ13世にリシュリューの罷免を求め、1630年11月11日、ルイ13世は説得に応じてリシュリューの罷免の確約をしてしまいました。
母后の策謀を知ったリシュリューは、余りの窮地に絶望し自らの政治生命の終焉を覚悟しました。

しかし、周囲に促された彼は、同日、ベルサイユへ行き翻意するようにルイ13世を説得します。

そして、長時間の会談の末、国王は、「私は自分の母よりも自分の国家に愛着を持っている」と述べ、一転してリシュリュー支持を表明したのです。

マリヤックは逮捕、母后は幽閉されたのち国外に亡命することを余儀なくされ、リシュリューにとっての最大の危機は去りました。

「欺かれし者たちの日」と呼ばれるこの事件によって、以降のフランスの運命は決定づけられ、国王の支持のもとリシュリューはさらに「国家理性」という自らの政治目標を達成するため邁進していくことになります。
国内では、着々と地盤を固め王権強化に努めていたリシュリューでしたが、国際情勢は緊迫していました。

1618年にボヘミアで始まった三十年戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込み、国際戦争へと発展していたのです。

ここで、リシュリューの外交政策を思い出して頂きたいのですが、彼は神聖ローマ帝国とスペインを支配するハプスブルク家に一貫して対抗していきます。

ハプスブルク家が勢力を拡大し、ヨーロッパ全体を支配するようになることはフランスの国益に反すると考えていたからです。
事の起こりは、1617年に熱心なカトリック教徒であったフェルディナント2世(19年からは神聖ローマ皇帝)がボヘミア王に選出されたことにあります。

彼は、国王になるや否や、それまで行われていた融和政策を翻し、プロテスタントたちを弾圧を開始。

この弾圧に対して1618年にプロテスタントであったボヘミアの諸侯たちは反乱を起こしました。

これが三十年戦争の始まりです。

戦局は、ハプスブルク(皇帝)側が有利に進み、ボヘミアの反乱を制圧していきましたが、ハプスブルク家の力が強くなることをよしとしないリシュリューは、1624年にイングランド、スウェーデン、デンマークと共に対ハプスブルク包囲網を結成しました。そして、戦局は新たな局面へと移っていきます。

④語られざる天才――リシュリュー

1625年にデンマークのクリスチャン4世は、反ハプスブルク勢力の支援を受けて、プロテスタント側に立って参戦しました。

デンマークの参戦に対してフェルディナント2世は、ボヘミアの傭兵隊長であったヴァレンシュタインを司令官に抜擢し、デンマーク軍と戦わせます。

結果として皇帝のこの起用は大成功でした。デンマーク軍の仲間割れもあって、ヴァレンシュタインはデンマーク軍を次々と撃破し、1629年の時点では皇帝はドイツのプロテスタント勢力をほとんど制圧してしまいます。
ハプスブルク家の勢力が強大化してしまうということを恐れるリシュリューは、今度はスウェーデンを資金援助し、1630年にスウェーデン王グスタフ・アドルフがプロテスタント側に立って介入しました。

ドイツへと乗り込んだ「北方の獅子」は、破竹の勢いで進撃します。

スウェーデンの猛攻に何か手を打たなければならないフェルディナント2世でしたが、肝心のヴァレンシュタインは、皇帝と対立し司令官の職を解かれていました。

ですが、快進撃を見せるスウェーデン軍に対して、皇帝も再びヴァレンシュタインに頼らざるを得なくなります。

こうして司令官へと復帰したヴァレンシュタインは、1632年にスウェーデン軍とリュッツェンで激突。

戦闘は、スウェーデン軍の優勢で展開していましたが、予期せぬアクシデントに見舞われます。

極度の近視だったアドルフは、濃霧の中で自軍から離れてしまい、戦死したのです。

この戦闘は、最終的にはスウェーデン軍の勝利に終わったのですが、国王を失ったスウェーデン軍は勢いを失ってしまいました。
好機と見たフェルディナント2世は、邪魔になったヴァレンシュタインを暗殺し、嫡男を司令官に据えスウェーデン軍と対決、スウェーデン軍に大打撃を与えます。

またしても、ハプスブルク側に有利な状況になってしまったため、いよいよフランス自らが戦争に介入せざるを得なくなりました。

ついにリシュリューは、1635年にスペインに対して、1636年に神聖ローマ帝国に対して宣戦布告を行い、カトリック教国であるフランスは、正式に三十年戦争にプロテスタント側で参戦します。

ですが、これは大きな賭けでもありました。というのも、フランスは、地理的にスペインと神聖ローマ帝国というハプスブルク勢力に挟まれている上に、「太陽の沈まない国」と呼ばれていたスペインは全盛期に比べれば国力が衰えていたとはいえ、陸軍の力は依然としてフランス軍よりも優っていたからです。

語られざる天才――リシュリュー

戦況は予想通り、厳しいものとなります。

スペイン・神聖ローマ帝国軍の攻撃を受けたフランス軍は後退し、1636年には、パリまで脅かされるという危機的な状態に追い込まれます。

ですが、そこからフランス軍は反撃に転じ、ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル、コンデ公、ティレンヌらの活躍もあってハプスブルク軍をフランスの国境まで押し戻し、その後は、両軍とも決定的な勝利を収めることができず、戦局は膠着状態に入ります。
リシュリューは、三十年戦争の終結を見ることなく、1642年にこの世を去ります。

三十年戦争が終結したのは1648年のウェストファリア条約によってです(スペインとは1659年まで戦争が続きました)。

この戦争の結果、神聖ローマ帝国とスペインのハプスブルク家の力は急速に衰え、皇帝・教皇を頂く単一のヨーロッパは崩壊。

対等な主権を有する国家が並び立ち、相互に合従連衡を繰り返すことで勢力の均衡を目指す国際秩序(ウェストファリア体制)が生みだされます。

リシュリューの目的は見事に果たされたのです。

そして、小さな国家に分裂してバラバラになった神聖ローマ帝国を尻目に、「王権の強化」によってフランスでは国王を中心とした中央集権化が実現され、ルイ14世の下で絶対王政の時代を迎えます。
ここまでのリシュリューの政策を見て、現在の日本の政治家も見習って欲しいと思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

リシュリューは、「国家理性」というものを政治的な目標に掲げて、自らの政策を進めていきました。

自らの理想や理念を捨ててでも、徹底的に国益を追求するという政治姿勢は、後年、ドイツの鉄血宰相ビスマルクなどと並んで高く評価されています。

ハプスブルク家の支配を挫き、強力な主権国家「フランス」を作り出しリシュリュー。

この「フランス」という枠組みは、フランス革命・ナポレオン帝政を経て現在に至るまで受け継がれているのです。
最後に、リシュリューの功績として現在まで残り続けているものとして、「アカデミー・フランセーズ」の創設があります。

その役割はフランス語の純化・統一を目的に辞書や文法書の編纂なのですが、この会員に選ばれること自体が大変名誉なことです。

定員は40人で任期は終身。

現在までの700名以上の会員には、モンテスキュー、ユーゴー、パストゥール、トクヴィル、ポアンカレなどのフランスを代表する偉人たちが名を連ねています。

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