1921年デビスカップの日本代表男子テニスの国別対抗戦

1921年デビスカップの日本代表男子テニスの国別対抗戦

・語られざる天才――1921年デビスカップ日本代表

デビスカップは、1900年から開催されている男子テニスの国別対抗戦です。

現在の参加チーム数は130で、出場国は5つのレベルのグループに分かれて対戦しますが、デビスカップの優勝国は最上位レベルの「ワールドグループ」16か国によるトーナメントで決定されます。

日本代表はというと、現行の制度となった1981年以降、1981年と1985年に「ワールドグループ」でベスト16という成績を残していましたが、その後は長期間低迷し、2012年に錦織圭という天才プレーヤーの登場もあって27年ぶりに「ワールドグループ」に復帰を果たしました。

以降、「ワールドグループ」に残留を続け、2014年大会はベスト8という過去最高の成績でした。
現行制度になってからはこのベスト8というのが最高成績になっていますが、実は初出場だった1921年に準優勝という結果を残しているのです。

デビスカップは、5セットマッチのシングルス4試合、ダブルス1試合の合計5試合の結果で勝敗が決定されるのですが、1921年の日本チームは、清水善造と熊谷一弥の2人がシングルスとダブルスに出場しました。
1891年に群馬県で生まれた清水善造は、高崎中学を卒業後、東京高等商業学校(一橋大学)に入学し庭球部で活躍します。

彼の名が世界に知られるようになったのは、1920年のウィンブルドン選手権でした。

当時のウィンブルドンは、まず「チャレンジラウンド」が行われ、「チャレンジラウンド」の勝者と前年度の優勝者との間で選手権者を決定するという方式で行われていましたが、清水は、「チャレンジラウンド」でいきなり決勝(前年度覇者に対する挑戦者決定戦)に進出したのです。

結果としては惜しくも挑戦権獲得はなりませんでしたが、自らの実力が世界でもトップクラスであるということを証明したのです。
熊谷一弥は、1890年に福岡県で生まれ、慶應義塾大学に入学しました。

当時の日本では軟式テニスしか行われていなかったのですが、慶應のテニス部はいち早く硬式テニスへと転向することとなり、熊谷は日本で最初の硬式テニスプレーヤーとなりました。

1916年熊谷は日本選手として初めてテニスの四大大会の一つである全米選手権に出場すると、1918年には準決勝まで勝ち進みました。

また、1920年のアントワープ五輪ではシングル・ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人のスポーツ選手として初のオリンピックメダリストとなります。
このような世界のトッププレイヤーだった2人がチームを組み挑んだのが1921年のデビスカップだったのです。

スポンサーリンク
広告代

②語られざる天才――1921年デビスカップ日本代表

1921年のデビスカップに参加したチームは前年度優勝のアメリカ、一昨年優勝のオーストラリア、イギリス、日本、フランス、インド、アルゼンチン、チェコスロヴァキア、フィリピン、ベルギー、カナダ、スペインの僅かに12チームでした。

しかも、アルゼンチンとフィリピンは組み合わせが決定した後で棄権していますので、実質的に参加したのは10チームだけです。

ですが、それには船での長距離移動という当時の交通事情が影響していました。

余談ですが、翌年の1922年大会でも日本を含めた4か国が長距離移動という同様の理由で棄権しており、1923年からは移動の負担を軽減するために「アメリカ・ゾーン」と「ヨーロッパ・ゾーン」の2つの地域に分かれて試合が行われるようになりました。
当時のデビスカップもウインブルドン選手権と同じように、前年度の優勝者に挑戦者決定トーナメントの勝者が挑むという方式で行われていました。

初出場の日本は、初戦の相手がフィリピンでしたが、上記のようにフィリピンは出場できなかったの不戦勝、2回戦もベルギーが出場できず不戦勝となり、いきなり準決勝から試合をすることになります。

アメリカのシカゴで行われたインドとの準決勝では、日本チームは5-0とストレートでインドを圧倒し、危なげなく決勝(挑戦者決定戦)へと駒を進めました。

決勝の相手は一昨年の優勝チーム・オーストラリア。オーストラリアといえば現在でもテニスの強豪国であり、四大大会の一つ全豪オープンが行われてますが、当時からテニス大国の一つで、1921年までに6回の優勝を誇っていました。

アメリカのニューポートで行われたこの試合は、初戦のシングルスで清水が、翌年の全豪選手権(全豪オープン)で優勝することとなるジェームズ・アンダーソンをストレートで破り、勢いに乗ります。

続く2戦目は熊谷が翌年の全豪選手権でダブルスと混合ダブルスの二冠を獲得するジョン・ホークスに2セット先取され厳し状況に追い込まれますが、そこから3セットを連取し返し逆転勝利。

3戦目の清水・熊谷のダブルスは敗れますが、4戦目のシングルスで清水がホークスに勝利し、この時点で日本の勝利が確定します。

続く、5戦目も熊谷がアンダーソンをフルセットで破り、日本は4-1でオーストラリアを破るという大番狂わせを起こしたのです。
こうして、日本は前年度覇者のアメリカにデビスカップをかけて挑むことなりました。

③語られざる天才――1921年デビスカップ日本代表(3)

デビスカップの「チャレンジラウンド(決勝)」は、1921年9月2日から3日にかけて、ニューヨークのウェストサイド・テニスクラブで行われました。

対戦相手となるアメリカは、世界最強に相応しい陣容でした。シングルスに出場したのは、ビル・ジョンストンとビル・チルデンという2人の「ビル」です。

小柄なジョンストンと大柄なチルデンは、「リトル・ビル」、「ビッグ・ビル」と呼ばれ、1919年から1925年にかけて全米選手権の決勝を戦い2人は一時代を築いていました。

ジョンストンのキャリアにおける四大大会シングルスの優勝は、1916年と1923年の全米選手権、23年のウィンブルドン選手権の3勝です。

一方、「ビッグ・ビル」ことチルデンは、日本選手にとっては因縁の相手でした。

1918年の全米選手権準決勝では、熊谷を圧倒しており、1920年のウィンブルドンではチャレンジラウンドの決勝で清水の挑戦権獲得を阻み、そのままウィンブルドン選手権初優勝を飾っています。

チルデンは、生涯において全米選手権のシングルス7勝、ウィンブルドン選手権シングルス3勝を挙げており、歴史的な名プレイヤーです。

加えて、ダブルスはその年の全米選手権準優勝のワトソン・ウォッシュバーンとリチャード・ウィリアムズの「ハーバード大学・コンビ」が相手で、2人ともダブルスの名手でした。

試合は、大方の予想通り日本チームにとって厳しいものとなりました。

初戦のシングルスで熊谷は、ジョンストンから1セットも奪うことができずストレート負け。

2戦目の清水は、先に2セットを先取し、第3セットも清水が5-4とリードしていましたが、そこから逆転されてこのセットを7-5で落とすと、試合の流れは一転。チルデンに続く4、5セットも奪われてしまい、清水はウィンブルドンの雪辱を果たすことはできませんでした。

後がなくなった日本チームでしたが、3戦目のダブルスも3-1で落とし敗退が決定。残りの2試合も相次いで敗れ5-0の完敗となってしまいました。
こうして日本チームの戦いは終わりましたが、この準優勝という成績は未だに破られていません。

それどころか、戦後日本のテニス界は長期にわたる低迷期に入ります。

世界ランキングでトップ10に入った日本選手は、熊谷、清水をはじめ6人いますが、そのうちの5人は戦前の選手です。

ですが、6人目の選手がついに2010年代になって現れたのです。

おそらく、これから錦織圭が勝つたびに戦前の5人のプレイヤーの名前が挙がることになるでしょう。

スポンサーリンク
広告代
広告代

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする