大学入試のための紛らわしい世界史 ベスト19

大学入試のための紛らわしい世界史 ベスト19

大学入試のための紛らわしい世界史 1  赤い色黄色の乱

a617128418ba44008c558f7a28228403_s

「赤」眉の乱

「黄」巾の乱

「黄」巣の乱

「紅」巾の乱

と中国史にはイロの名前のついた「乱」がイロイロと登場します。

このイロイロと紛らわしい用語を整理しましょう。

1.「こうきん」の乱

黄巾の乱と紅巾の乱は、読み方はともに「こうきんのらん」、

農民の反乱ということ共通します。

しかし、

時代が違います。

乱の結果も異なります。

【黄巾の乱】
・中国の後漢末期184年に、太平道の教祖 張角が起こした農民の反乱。
・黄色い頭巾を用いました。
・張角が死に乱の勢いで衰え、乱が平定されます。
・後漢が衰え、三国時代に移るきっかけになりました。

【紅巾の乱】
・中国の元末期1351~66年、白蓮教徒などが中心勢力となり、起こした農民の反乱。
・紅色の頭巾を用いました。
・紅巾軍の武将であった朱元璋が明朝を興しました。
・異民族王朝の元を倒し、漢民族王朝を復活するきっかけとなりました。

2つの違いは、

黄巾の乱は、後漢末期。三国時代と混乱の時代となる契機になります。

紅巾の乱は、元の末期。漢民族国家明の時代となる契機になります。

2.黄巣の乱

「こうそうのらん」と読みます。

農民の反乱です。

【黄巣の乱】
・中国唐の末期の875年 塩の密売人である王仙芝と黄巣が中心となり起こした農民の反乱。
・「黄巣」は色つきの物の名前ではなく、人の名前です。
・907年に唐を滅ぼし、後梁を建国する朱全忠が将軍となり参加しました。
・唐を滅ぼし、五代十国の分裂期に入る契機となりました。

王仙之(おうせんし)は、唐の将軍高仙之(こうせんし)との違いが紛らわしいですね。

【王仙之】
・唐末期 塩の密売商人。
・875年、黄巣とともに反乱を起こしました。
・のちに黄巣と分かれ、唐軍に敗れ殺されました。

【高仙之】
・唐の将軍。
・751年のタラス河畔の戦いでアッバース朝と戦い、敗北します。
・755年の安史の乱で殺されました。

朱全忠(しゅぜんちゅう)と朱元璋(しゅげんしょう)の違いも紛らわしいですね。

黄巣の乱で登場した「朱全忠」は、後梁の太祖(位907~912)。

紅巾の乱で登場した「朱元璋」は明の太祖。洪武帝(こういぶてい)のことです。

「こうぶてい」といえば、

洪武帝は 明朝初代皇帝(位1368~98)で、紅巾の乱の活躍する「朱元璋」のことです。

明をおこし、金陵(南京)で即位。元朝を滅ぼします。

おなじ読み方をする光武帝は、後漢の初代皇帝です。名は劉秀。

新を滅ぼし、洛陽を都に後漢を建国します。

この劉秀が滅ぼした新。その末期の反乱が「赤眉の乱」(せきびのらん)です。

3.赤眉の乱

【赤眉の乱】
・中国の新末期18年に起きた農民反乱の名称。
・「赤眉」はまゆげを顔料で赤く塗り目印したものです。
・27年、劉秀の軍によって鎮定されます。

赤眉の乱は、紅巾の乱と同様、のちに安定する国家が中国に出現する農民の反乱です。

黄巾の乱、黄巣の乱とは結果がちがいますね。

4.最後に

最後にイロイロな乱の順序をまとめておきます。

(新末期)赤眉の乱⇒後漢成立→(後漢末期)黄巾の乱→(唐末期)黄巣の乱→五代十国時代→(元朝末期)紅巾の乱→明成立

大学入試のための紛らわしい世界史 2 「1世」の王たちと清教徒革命

e43e5853bbe7832f04bb1f59ad1b346c_s

清教徒革命、名誉革命に関連するイギリスの王の名前

ジェームズ1世
チャールズ1世
チャールズ2世
ジェームズ2世
メアリ2世

1世2世がつづく。同じ名前がつづく・・・

覚えやすいという方とややこしいと思う方がいると思います。

今回はそんなイギリススチュアート朝を整理します。

スチュアート朝の始まり

【ジェームズ1世】
スチュアート朝の開祖。スコットランド王ジェームズ6世。

ジェームズ1世はスチュアート朝の開祖です。

ジェームズ1世の前イングランド王は、チューダー朝のエリザベス1世
ヴァージン・クイーンと呼ばれた人で、後継ぎがいませんでした。

スコットランド女王メアリ・スチュアートの子 ジェームズ6世が
エリザベス1世の後継としてイングランド王 ジェームズ1世になりました。
イングランドとスコットランドの王を兼任し、同君連合を形成しました。

ちなみに、メアリ・スチュアートはエリザベス1世に処刑されました。

「メアリ」、処刑と血なまぐさいという話から、ブラッディー・マリーを連想します。
ブラッディー・マリーはエリザベス1世の前のイングランド女王。メアリ1世のことです。
カトリック教徒で、プロテスタントを迫害し、その凄惨ぶりから
「ブラッディー(血まみれ)・マリー」と呼ばれました。

さて、ジェームズ1世は、王権神授説信奉し、専制政治を行いました。
イギリス国教会政策を強化し清教徒を迫害しました。
そのため、1620年清教徒がメイフラワー号で渡米します。

チャールズ1世と清教徒革命

【チャールズ1世】
権利の請願」を提出され、清教徒革命で処刑された王。ジェームズ1世の子。

王権神授説信奉し、父ジェームズ1世以上の専制政治を行いました。
1628年議会は、権利請願を提出し、
議会の同意のない課税や不法逮捕を止めることを約束させました。
怒ったチャールズ1世は翌1629年議会を解散します。
以後11年間議会は召集されませんでした。

チャールズ1世はイギリス国教会政策をスコットランド国民へ強制します。
そのため1639年、スコットランドでプレスビテリアンが反乱を起こします。
チャールズ1世は、反乱鎮圧のため議会を招集します。
しかし、議会は王に反発。王は招集から3週間で議会を解散します。
これを短期議会と言います。

そして議会を再招集します。1653年まで解散がなかったこの議会を長期議会といいます。

議会はチャールズ1世に大諌奏を提出・可決します。
この文書を巡って、議会は王党派と議会派に分かれ対立し、
ピューリンタン(清教徒)革命がおきます。
戦いに勝利した議会派は1649年チャールズ1世を処刑しました。

でもスチュアート朝は断絶しません。

まとめ

チューダー朝:メアリ1世→エリザベス1世→断絶
→スチュアート朝:ジェームズ1世→チャールズ1世

まだ「1世」しか登場していません。

大学入試のための紛らわしい世界史 3 「2世」の王たちと名誉革命

e43e5853bbe7832f04bb1f59ad1b346c_s

清教徒革命、名誉革命に関連するイギリスの王の名前

ジェームズ1世
チャールズ1世
チャールズ2世
ジェームズ2世
メアリ2世

の整理です。

前回は、
チューダー朝:メアリ1世→エリザベス1世→断絶
→スチュアート朝:ジェームズ1世→チャールズ1世
まで整理しました。

まだ「1世」しか登場していません。
今回はイギリススチュアート朝「2世」王を整理します。

王政復古

【チャールズ2世】スチュアート朝王政復古を実現

チャールズ1世を処刑し、クロムウィルらの議会派は清教徒革命を達成します。
1653年クロムウェルは護国卿に就任。独裁政治を始めます。
クロムウェルの死後、子のリチャードが護国卿に就任しますが、指導力不足のため、
政治混乱します。

クロムウェルに排斥された議会長老派と王党派が手を結びます。
フランス王ルイ14世のもとに亡命していたチャールズ1世の子
チャールズ2世が、オランダでブレダ宣言を発し、即位します。

スチュアート朝が復活します。

しかし、チャールズ2世はやがてカトリックの復活、専制政治を企図します。

チャールズ2世は、フランス王ルイ14世カトリックへの改宗や
オランダ侵略を約束しました(ドーヴァーの密約)
カトリックの復活を恐れた議会は、1673年審査法を可決し、
公職就任者を英国国教会信徒に限定しました。

1679年議会は、王の不法逮捕を禁止する人身保護法を可決させました。
同じ年、議会は、チャールズ2世の弟で、カトリック教徒であるジェームズ2世が、
即位するのを阻止する王位継承排除法案を提出します。
この法案は、賛成派であるホイッグ(「アイルランドの危険分子」という意味)党と
トーリー(「アイルランドの無法者」という意味)党を生み出しました。

名誉革命

【ジェームズ2世】名誉革命によって亡命

1685年ジェームズ2世が即位します。
チャールズ2世の弟で、カトリック教徒です。

議会を無視し、カトリックを復活させる疑惑が持ち上がります。
ホイッグ党とトーリー党が手を結びます。
1688年危険分子と無法者たちによって、ジェームズ2世はフランスへ追放されます。

これが名誉革命です。

【メアリ2世・ウィリアム3世】権利章典と共同統治
ジェームズ2世の娘です。父王と違いプロテスタント。
1689年 議会が王権よりも優位である権利章典を認め
夫のオラニエ公ウィリアムとともに王に即位。共同統治をします

メアリ2世の死後、ウィリアム3世が単独で統治しますが、
メアリ2世とウィリアム3世の間には子供がなく、
ジェームズ2世の娘でメアリ2世の妹 アンが即位します。
アンには子供がいなかったので、スチュアート朝は途絶えます。

まとめ

清教徒革命→王政復古:チャールズ2世→ジェームズ2世→
→名誉革命→メアリ2世・ウィリアム3世→アン:スチュアート朝断絶

ジェームズ、チャールズ、メアリは
清教徒革命前は「1世」、清教徒革命後は「2世」が登場します。

大学入試のための紛らわしい世界史4 「カール5世」ってどこのドイツ?

vienna-003-1226847-638x474
今回は、名前が違うが、実は同一人物を取り上げます。
神聖ローマ皇帝の「カール5世」であり
スペイン=ハプスブルグ王朝の国王の「カルロス1世」です。

ちなみにドイツ語の「カール」をスペイン語で読むと「カルロス」、英語では「チャールズ」フランスでは「シャルル」となります。
しかも
同一人物で読み方が異なるだけなのに
神聖ローマ皇帝では「5世」
スペイン王では「1世」、
と紛らわしいですね。

だけど、彼の神聖ローマ皇帝として実績は、宗教改革との関係で出題されます。
そこで今回はカール5世の実績を整理しておきましょう。

今回のポイント

・ルターの宗教改革への対応
ヴォルムス帝国議会とルター派の禁止
・イタリア戦争とオスマン帝国との戦い
仏王フランソワ1世とのイタリア戦争
オスマン軍の第1次ウィーン包囲
・ルター派との和解
トリエント公会議
アウグスブルグの和議

ルターの宗教改革への対応

ローマ教皇レオ10世サン=ピエトロ大聖堂改築のため

贖宥状をドイツで販売します。

当時のドイツはローマの牝犬(めすいぬ)と言われていました。

それほど、ローマ教皇の政治的影響を受けやすい地域でした。

1517年 マルティン・ルターは、贖宥状販売を攻撃する九十五条の論題を発表します。

ローマ教皇は、ルターを破門すると脅かしましが、ルターは屈しません。

さらにルターはルター派の教義を発表します。

【ヴォルムス帝国議会】

神聖ローマ皇帝カール5世はルターを説得するため、1521年ヴォルムス帝国議会で

教義の撤回を要求します。しかしルターは拒否。

皇帝はルターを神聖ローマ帝国から追放し、ルター派を禁止しました。

【オスマン帝国との戦い】

神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世

イタリア支配を巡って戦争をしていました(イタリア戦争)

フランソワ1世は、オスマン帝国のスレイマン1世と同盟します。

スレイマン1世のオスマン帝国軍は、パプスブルグ家の拠点であるオーストリアを攻撃。

オスマン帝国の侵攻に危機を抱いたカール5世は、

1526年禁止したルター派の信仰を認めます第1シュバイエル帝国会議)。

そして、神聖ローマ帝国内のルター派の諸侯を味方に付けます。

1529年、ウィーンを包囲します(第1次ウィーン包囲)

カール5世らのウィーン守備軍は、オスマン帝国軍を退けました。

【ルター派との和解】

オスマン軍攻撃の危機を脱したカール5世は、

1530年ルター派を再び禁止(第2次シュバイエル帝国会議)します。

ルター派諸侯は、抗議します。この抗議をプロテストといいます。

諸侯らはシュルマンカルデン同盟を結成します。

神聖ローマ帝国内の諸侯とはその後対立が続きます。

そこで1546年皇帝は トリエント公会議でルター派との和解を試みます。

しかし、ルター派は公会議には欠席。

会議はカトリック側の反宗教改革を推進を決定しました。

皇帝カール5世とシュルマンカルデン同盟との間で戦いが起こります。

ルター派諸侯の内部対立などで、カール5世が勝利します。

1555年アウグスブルグの和議ルター派を公認し、和解します。

カルヴァン派は公認されませんでした

しかし、この和議の内容に不備があり三十年戦争の火種となります。

補足

カール5世はオーストリアのハプスブルク家の出身です。

当時、パプスブルグ家は神聖ローマ帝国の皇位とスペイン国王の王位も

持っていました。

現在もオーストリアはドイツ語圏です。だから「カール」になります。

大学入試のための紛らわしい世界史5 カルロス1世は世界最強だった!?

columbus-statue-madrid-1566924-640x480

前回は、神聖ローマ皇帝の「カール5世」を取り上げましたが、
今回はスペイン=ハプスブルグ王朝の国王の「カルロス1世」です。

といっても前回説明させていただいた通り同一人物です。
だけど、スペイン国王の「カルロス1世」については、絶対王政、大航海時代との
関係で出題されます。
そこで今回はカルロス1世を整理しておきましょう。

今回のポイント

スペイン=ハプスブルク王朝の祖
大航海時代のスポンサー
・世界周航を成功させたマゼランのスポンサーとなる
コンキンスタドールの保護者
・中南米にスペイン植民地を拡大
プレヴェザの海戦

スペイン=ハプスブルク王朝の祖

カルロス1世の母親はスペイン女王ファナ。
ファナの夫がハプスブルグ家の人です。
ファナの祖父フェルナンド2世が死亡すると
1516年母親と共同統治でスペイン国王に即位。
スペイン=ハプスブルク王朝が始まります。
1519年 ハプスブルグ家領土を継承。
同年 スペインの国家予算5年分をつぎ込み神聖ローマ皇帝(カール5世)に選ばれます。

大航海時代のスポンサー

マゼラン
ポルトガル人マゼランを後援し、1519年スペインを出港し、1522年世界周航に成功します。
アメリカの南端を通り、太平洋にたどり着きます。
このマゼランの航海がきっかけで、フィリピンがスペイン領となります。

※マゼランの名前とまちがいやすいのが「マザラン」。
マザランは、ルイ14世時代のフランスの宰相。三十年戦争後のウェストファリア条約
フランス領土を拡大します。またフロンドの乱を鎮圧し、絶対王政の基礎を築きました。

コンキスタドールの保護者

コルテスは、1521年アステカ帝国(メキシコ)征服。
ピサロは、1533年インカ帝国(ペルー))を征服します。
コルテスやピサロらをコンキスタドール(征服者)といいます。
中南米にスペイン植民地が拡大しました。
ただ、ラス・カサス神父からインディオの人口減少についての報告をうけ、
エコミンダ制の廃止を約束しました。

プレヴェザの海戦

神聖ローマ皇帝カール5世として、オスマン軍と戦っていました。
フランスなどがオスマン帝国と和睦しても
カール5世(カルロス1世)オスマン帝国と和睦しませんでした。
1536年プレヴェザの海戦
スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とオスマン帝国海軍と戦うが
スペインはオスマン帝国に敗れ、地中海の制海権を失う。

※プレヴェサの海戦はレパントの海戦(1571年)と間違いやすいので注意。
レパントの海戦はスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とオスマン帝国海軍と戦い、
スペインはオスマン帝国に勝利します。
ただ、この海戦のときのスペイン王はフェリペ2世です。

カルロス1世の最後

お忍びで外出したカルロス一世がある農夫に
「スペインで尊敬をされている王様は誰かね?」と尋ねました。
農夫は「イザベル女王陛下ですよ」
「今の国王陛下はどうかね?」
「今の陛下は馬鹿ですね。新教徒をやっつける戦争ばかりしています。
戦争をしなくても世界で一番強い王様なのに・・・」

戦争に明け暮れたカルロス1世(カール5世)は1556年を退位します。
スペイン王位は息子のフェリペ2世、神聖ローマ皇帝は弟のフェルディナント1世が継ぎます。
1558年に亡くなりました。

スポンサーリンク
広告代

大学入試のための紛らわしい世界史6 メソポタミアの民族と王国

79b9dbd76838ee433d11f84c16372964_s

紛らわしい用語が多いメソポタミアを整理します。

1.アムル人とアラム人

【アムル人】
紀元前19世紀ころ バビロンを首都に古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国。
楔形文字を使用し、
紀元前18世紀ころ第6代目の王ハンムラビ王のときにハンムラビ法典を発布しました。

【アラム人】
紀元前12世紀ころ シリアのダマスクスを中心に内陸貿易で活躍した民族。
アラム語は国際語となり、旧約聖書にも使われました。
アラム文字は、アラビア文字、中央アジアや北アジアの文字やソグド文字へも影響を与えました。

※フェニキア文字
フェニキア人の使用していた文字。
のちにギリシアに伝わり、アルファベットのもとになったと言われています。
フェニキア人は地中海の海上貿易で活躍。
拠点はシドン・ティルスなどの都市国家を築きます。
アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシア、アレクサンダー大王の攻撃をうけますが、
カルタゴなどを拠点に長く地中海で活躍します。

2.古バビロニア王国と新バビロニア王国

【古バビロニア王国】
セム系アムル人が紀元前19世紀ころメソポタミア南部に建国。首都バビロン。
紀元前18世紀ころ第6代目の王 ハンムラビ王のときに全メソポタミアを統一しました。
紀元前16世紀ころ、ヒッタイト人の侵入によって滅亡しました。

【新バビロニア王国】
セム系カルデア人が紀元前625年メソポタミアからシリアにかけて建国。首都バビロン。
紀元前612年 メディアと連合し、アッシリア王国の首都ニネヴァを制圧。
アッシリアを滅ぼします。
2代目の王 ネブカドネザル2世のときに全盛期を迎えます。
紀元前586年 ユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに強制的に移住した
バビロン捕囚を行いました。
紀元前538年アケメネス朝ペルシアに滅ぼされます。

※ユダ王国とイスラエル王国
モーゼによってエジプトから出国したユダヤ人が紀元前1021年ころヘブライ王国を建国。
2代目王ダヴィデ王エルサレムを首都にしました。
3代目のソロモン王のとき全盛期を迎えます。
しかし、ソロモン王の死後、北部のイスラエル王国、南部のユダヤ王国に分裂します。
イスラエル王国は、紀元前722年アッシリア王国に滅ぼされます。

3.ヒッタイトとヒクソス

【ヒッタイト】
紀元前17世紀に小アジアに建国。インド=ヨーロッパ系の民族です。
首都はホアズキョイ。オリエントで初めて鉄器を使いました。
ミタンニ王国を滅ぼすなど強盛を誇りました。またエジプト新王国ラメセス2世ガディシュで戦いました。
紀元前12世紀、謎の民族海の民の侵入によりほろびました。
【ヒクソス】
紀元前17世紀初頭頃にシリアからエジプト中王国に侵入、エジプト中王国を滅ぼしました。
その後約100年エジプトを支配しました。

まとめ

メソポタミアの民族はセム系が多いのですが、
ヒッタイトはインド=ヨーロッパ系なので覚えておきましょう。
アラム文字とフェニキア文字は他地域の言語に影響したものです。
用語の似た名前が多い時代なので混乱しないよう整理をしておきましょう。

大学入試のための紛らわしい世界史7 インドの渡った3人の僧

d3d82b5911e382e9359ff193e48382ba_s

古代、中国からインドに渡った3人の僧がいました。
法顕、玄奘、義浄の3人のことです。
この3人は、時代、インドと中国の往復の経路、その著書をよく出題されます。
とても間違いやすいところなので整理をしておきましょう。

法顕

ほっけんと読みます。

時代は、東晋のころ、4世紀~5世紀の人です。

法顕が訪問したころのインドはグプタ朝 チャンドラグプタ2世が治めていました。

インドまでの往路は、内陸アジアを経由した陸路。復路はセイロンから海路を利用しました。

帰国後『仏国伝(ぶっこくき)』を著しました。

【3人のチャンドラグプタ】

「チャンドラグプタ」も紛らわしい世界用語です。

インド史において3人の「チャンドラグプタ」が登場します。

チャンドラグプタ

マウリヤ朝の初代王(紀元前317年ころ~紀元前296年ころ)。

マガタ国ナンダ朝を倒し建国します。首都はインダス川中流域のパータリプトラ。

マウリヤ朝の3代目は、アショーカ王です。

チャンドラグプタ1世

グプタ朝の初代王(320年~335年ころ)。

首都はインダス川中流域のパータリプトラ。

チャンドラグプタ2世

グプタ朝第3代の王(376年~415年ころ)。グプタ朝の最大版図を獲得、最盛期を現出しました。

玄奘

げんじょうと読みます。

時代は、のころ、玄宗の治世のころの人です。

玄奘が訪問したころのインドは、ヴァルナダ朝ハルシャ=ヴァルナダ(戒日王)の治世のころです。

インドまでは往復陸路でした。

インド滞在中、ガンジス川中流域のナーランダ僧院で学びます。

ハルシャ=ヴァルナダに厚遇され、多くの仏典を持ち帰ります。

帰国後『大唐西域記(だいとうさいいきき)』を著しました。

明代の『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人物としても知られています。

【ハルシャ=ヴァルナダ】

ハルシャ=ヴァルナダは、グプタ朝滅亡後の北インドを統一。

ヴァルナダ朝の初代の王です(606年~647年)。

ヒンドゥー文化と仏教を保護します。

義浄

ぎじょうと読みます。

時代は、唐のころの人です。

義浄が訪問したころのインドは、ヴァルナダ朝は滅亡していました。

インドまでは往復海路でした。

インド滞在中、ナーランダ僧院で学び、多くの仏典を持ち帰ります。

帰国途中に立ち寄ったシュリーヴィジャヤ王国

南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』を著しました。

【シュリーヴィジャヤ王国】

シュリーヴィジャヤ王国は、スマトラ島に7~14世紀に栄えた王国です。

海上貿易で栄え、インドから伝わった大乗仏教が隆盛しました。

まとめ

この3人の僧の経路はそれぞれ違うので注意しましょう。

法顕は 往路は陸路 復路は海路。

玄奘は 往路、復路ともに陸路。

義浄は 往路、復路ともに海路。

大学入試のための紛らわしい世界史8 「フリードリッヒ」「ヴェルヘルム」はドイツだ!?

485089362c9d0afb540e3e4447beaa8f_s

神聖ローマ帝国、プロイセン王国ではなぜか「フリードリッヒ」「ヴィルヘルム」
「フリードリヒ・ヴィルヘルム」という名前がたくさんいます。
しかも、同じ名前が別の時代にも登場して紛らわしいものです。
今回は、そんな「フリードリッヒ」「ヴィルヘルム」「フリードリヒ・ヴィルヘルム」を整理します。

1.神聖ローマ皇帝

十字軍関連で、「フリードリッヒ」が2人登場します。

【フリードリヒ1世】
シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1152年 – 1190年)。
赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれました。
イタリア南下政策を取り、イタリア北部の都市のロンバルディア同盟敗れます。
フランス王フィリップ2世、イギリス王リチャード1世ともに
第3回十字軍にも参加します。しかし、小アジアで溺死します。

【フリードリヒ2世】
シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位:1220年 – 1250年)。
シチリア島出身でアラビア語も解する教養人でした。ナポリ大学を設立します。
第5回十字軍に参加。アイユーブ朝と戦わず外交手段で、エルサレルムを奪回します。
彼の死と息子の死後、神聖ローマ帝国は大空位時代(1256年 – 1273年)を迎えます。

2.プロイセン歴代国王

ホーエンツェレルン家のプロイセン王は
「フリードリッヒ」「ヴィルヘルム」「フリードリヒ・ヴィルヘルム」の宝庫です。

【フリードリヒ・ヴィルヘルム】
(候位1640年~1688年)プロイセンの領土を拡大します。

【フリードリヒ1世】
初代のプロイセン王。(候位1688年~1701年 王位1701年~1713年)
スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝側を支援。
プロイセン王と認められました。

【フリードリヒ・ヴィルヘルム1世】
2代目のプロイセン王。(在位1713年~1740年)
官僚制と常備軍を整備。 兵隊王と呼ばれ、絶対王政を確立しました。

【フリードリヒ2世】
3代目のプロイセン王(在位1740年~1748年)フリードリヒ大王と呼ばれました。
「君主は国家第1の下僕」は彼の言葉です。
オーストリア継承戦争7年戦争第1回ポーランド分割で領土を拡大します。
また啓蒙専制君主で、信仰の自由、商工業の振興などを実施します。
ロココ様式のサン・スーシ宮殿(ポツダム)を建設しました。

4・5代目プロイセン王は
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位1786年~1797年)
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位1797年~1840年)

【フリードリヒ・ヴィルヘルム4世】
6代目プロイセン王(在位1840年~1861年)。
1848年 ベルリンで3月革命が勃発。フランクフルト国民会議が開催されます。
その後、議会は1848年彼をドイツ皇帝に選出しますが、皇帝への即位を拒否しました。

3.ドイツ皇帝


【ヴィルヘルム1世】

7代目プロイセン王 初代ドイツ皇帝(在位1840年~1888年)
首相ビスマルク鉄血政策によって武力によるドイツ統一を達成。
1866年普墺戦争、1870~1871年普仏戦争で勝利しました。
1871年1月ベルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位します。

【フリードリヒ2世】
8代目プロイセン王 99日の在位で死亡。

【ヴィルヘルム2世】
ドイツ帝国最後の皇帝(在位1888年~1918年)。
ビスマルク外交の廃止。第1次世界大戦の誘因となります。
キール軍港の暴動から、ドイツ革命が勃発。オランダへ亡命し退位しました。

まとめ

フリードリヒ2世は3人出てきます。

1番重要なのは、フリードリッヒ大王の「フリードリヒ2世」。

次は第5回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝の「フリードリヒ2世」。

フリードリッヒ・ヴィルヘルムなら「4世」。

ドイツ皇帝のヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世はともに重要ですね。

大学入試のための紛らわしい世界史9 間違いやすい西洋文化史の人名

07fd10cd1b44b255be6f854de3f407d6_s

はじめに

世界史は膨大な情報を整理しなければいけないし、
流れもつかまなければならないので、
どうしても文化史は後回しになります。
今回はそんな手薄になりやすい紛らわしい西洋文化史用語を
整理しましょう。

1.ロジャー・ベーコンとフランシス・ベーコン

【ロジャー・ベーコン】
1214年頃~1294年。イギリスのスコラ学者。
フランチェスコ会士。オックスフォード大学の教授を務めました。
自然科学の研究で活躍。実験と観察を重視する実用的学問を追究しました。

【フランシス・ベーコン】
1561年~1626年 イギリスの科学者・哲学者。
実験と観察を重視した経験論(帰納法)的哲学の基礎を確立しました。
主な著作に「新オルガヌム」。

2.トマス・アクィナスとトマス・モアとトマス・マン

【トマス・アクィナス】
1225年頃~1274年。イタリアのスコラ学者。
ドミニコ会士。パリ大学の教授を務めました。
主な著作に「哲学大全」「神学大全」。

【トマス・モア】
1478年~1535年 イギリス・ルネッサンスの作家。
主な著作『ユートピア』は、理想郷を意味し、
当時の政治・社会を風刺しました。
ヘンリ8世に処刑されます。

【トマス・マン】
1875年~1955年。ドイツの作家。
反ファシズムの考えを持ち、ナチス政権が成立するとスイス経由でアメリカに亡命。
主な著作『魔の山』。ノーベル文学賞を受賞。

3.マネとモネ

【マネ】
1832年~1883年。フランスの画家。印象派の創始者。
代表作『草上の食事』「笛を吹く少年」

【モネ】
1840年~1926年。フランスの画家。印象派を確立した画家。
代表作連作絵画「睡蓮」。

4.ファン・アイク兄弟とファン・ダイク

【ファン・アイク兄弟】
兄:フーベルト1366年頃~1426年。
弟:ヤン1380年頃~1441年。
現ベルギー西部のフランドル地方の画家。
フランドル絵画派の創始者。1410年頃油絵技法を革新しました。
代表作『アルノルフィーニ夫妻』。

【ファン・ダイク】
1599年~1641年。フランドル地方出身の画家。
ルーベンスに弟子入りし、チャールズ1世の宮廷画家として
イギリスで活躍しました。

5.モンテーニュとモンテスキュー
【モンテーニュ】
1533年~92年。フランスの思想家・人文主義者(ヒューマニスト)。
主な著作に『随想録(エセー)』があります。

【モンテスキュー】
1689年~1755年。フランスの啓蒙思想家。法律家。
主な著作に『ペルシア人の手紙』(旧来の社会・制度を批判)
『法の精神』(三権分立を主張)。

6.コッホとゴッホ

【コッホ】
1843年~1910年。ドイツの医学者・細菌学者。
結核菌・コレラ菌などを発見しました。
北里柴三郎(医学者、ペスト菌を発見)の師。

【ゴッホ】
1853年~1890年。オランダ出身の画家。後期印象派の代表。フランスで活躍。
代表作「ひまわり」「アルルのはね橋」

7 ゴーゴリとゴーリキー

【ゴーゴリ】
1809年~52年。ロシアの作家。写実主義(リアリズム)文学の創始者。
主な著作『検察官』戯曲『死せる魂』など。

【ゴーリキー】
1868年~1936年。ロシア・ソ連の作家です。
ロシア=プロレタリア文学の祖。主著戯曲『どん底』。

まとめ

マネとモネはフランスでも間違えられているそうです。
今回は特に間違いやすい西洋文明をとりあげました。
しっかり整理して得点につなげましょう。

大学入試のための紛らわしい世界史10 紛らわしい中国文化史の用語

0a16fa82381c4bb981d07841408329f1_s

はじめに

手薄になりやすい文化史。
紛らわしいところを整理しましょう!

1.欧陽詢と欧陽脩

【欧陽詢】
おうようじゅんと読みます。
557年~641年。隋末期から唐初期の書道家。
楷書に秀で、王羲之(おうぎし)の書風を継ぎ
初唐三大書家の一人とされました。

※初唐三大書家・・・欧陽詢、虞世南(ぐせいなん)、褚遂良(ちょすいりょう)

【欧陽脩】
おうようしゅうと読みます。
1007年~1072年。
北宋の政治家、学者、文章家。唐宋八大家の一人。
古文復興推進者。中華思想を骨子として『新唐書』『新五代史』を編纂しました。
政治家としては、王安石(おうあんせき)の新法に支持したがのちに反対しました。

2.韓非と韓愈

【韓非】
かんびと読みます。
?~紀元前233年。
法治主義を唱え、『韓非子』を著しました。のち秦に仕えましたが、
同門の李斯(りし)に謀られ毒殺されました。

【韓愈(韓退之)】
かんゆ(かんたいし)と読みます。
768年~824年。
中唐の学者、文章家。唐宋八大家の一人。柳宗元(りゅうそうげん)とともに
四六駢儷体(しろくべんれいたい)を廃して漢以前の古文の復興を提唱しました。

※唐宋八大家・・・唐の韓愈、柳宗元、宋の欧陽脩、蘇洵(そじゅん)、蘇軾(そしき)、
蘇轍(そてつ)、曾鞏(そうきょう)、王安石

3.司馬遷と司馬光
【司馬遷】
しばせんと読みます。
紀元前145年頃~紀元前86年頃。
前漢武帝時代の歴史家。紀伝体の『史記』130巻を著しました。
『史記』は神話から前漢武帝時代までの通史を記載しています。

【司馬光】
しばこうと読みます。
1019年~1086年。北宋中期の政治家・歴史家。
政治家としては王安石の新法に反対して旧法党の指導者となりました。
また編年体の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』を著した。た
『資治通鑑』は戦国時代から五代末までの通史を記載しています。

4.紀伝体と編年体

【紀伝体】
紀伝体は、皇帝の業績記した「本紀(ほんぎ)」と
臣下の活躍を記した「列伝(れつでん)」で構成されます。
後漢の班固(はんこ)が記した「漢書(かんじょ)」、
欧陽脩の『新唐書』『新五代史』も紀伝体です。

【編年体】
編年体は、時系列に起きたことを記録している歴史書です。
孔子の『春秋』、司馬光の『資治通鑑』は編年体です。

まとめ

中国史は、太祖だけでも正確に覚えておかなければなりません。
また、楊堅は「楊」ですが、煬帝は「煬」と読みは同じでも
編に注意しなければいけない用語が多いです。
今回は紛らわしい中国文化史をとりあげました。
しっかり整理しておきましょう。

大学入試のための紛らわしい世界史11 古代ギリシアの紛らわしい項目

in-greece-2-1232864-639x852

1.ヘロドトスとトゥキディデス

ともに作品名が『歴史』です。
でも、内容、記述の仕方が異なります。

【ヘロドトス】
歴史の父と呼ばれます。
ペルシア戦争を物語風に記述しました。
【トゥキディデス】
ペロポネス戦争を批判的に記述しました。
なお、トゥキディデスはペロポネス戦争に参加していました。

2.ペルシア戦争とペロポネス戦争

2人の関係した古代の戦争を整理しておきましょう。
【ペルシア戦争】
紀元前500年~紀元前449年
アテネ、スパルタのポリス対アケメネス朝ペルシアの戦いです。
ミレトスなどのイオニア植民都市が反乱を起こします。
ペルシアのダレイオス1世がギリシアへ派兵します。

紀元前490年マラトンの戦いでアテネがペルシアを破ります。

紀元前480年サラミス海戦
アテネの指導者テミストクレスは、三段櫂船を使い、ペルシア海軍を破ります。
このときのペルシア王はクセルクセス1世です。

この戦争でアテネは繁栄します。デロス同盟の盟主となります。

【ペロポネス戦争)】
アテネは、ほかポリスへの干渉をするようなりました。
そこでスパルタなど反アテネのポリスが同盟(ペロポネス同盟)を結びます。

紀元前431年~紀元前404年
スパルタはアテネを破り、ギリシアの覇権を握り、各ポリスへ干渉します。
やがてテーベがスパルタを破り、台頭します。
このようにギリシアではポリス間の戦いがつづき、マケドニアが台頭します。

マケドニア国王フィリッポス2世は、アテネ・テーベ連合軍を
カイロネイアの戦いで破ります。
各ポリスとコリントス同盟を結び、マケドニアはギリシアを支配します。

3.ここで登場した紛らわしい用語

(1)テーベ
テーベはエジプトとギリシアで登場する都市の名前です。
①エジプトのテーベ
紀元前22世紀から17世紀までの中王国時代の中心都市。
中王国はヒクソスの侵入で滅びます。
②ギリシアの都市テーベ
ペロポネス戦争時、名将エパンミノダスの指導でスパルタに勝利。
一時、ギリシアの覇権を握ります。

(2)カイロネイアの戦い
戦いがあった場所はエジプトのカイロの近くではありませんよ。

(3)アレクサンドロス大王
アレクサンドロス(アレキサンダー)は「3世」です。

ちなみに
宇宙戦艦ヤマトに出てくるイスカンダルとは「アレクサンドロス」のことですよ。

もうひとつちなみに
アレクサンドロス大王が破ったアケメネス朝ペルシアの最後の王はダレイオス3世。
こちらも「3世」です。

アレクサンドロス大王が アケメネス朝ペルシアを破ったのは、
イッソスの戦い(前333年)、

アルベラ・ガウガメラ間の戦い(前333年)でペルシアを滅ぼします。

アレクサンドロス大王の後継者争いディアドコイ戦争(前323~301)の最大の戦いは
イプソスの戦い(前301)です。
この戦いのあと、アレクサンドロス国は3つに分裂します。

まとめ

・ヘロドトス・・・ペルシア戦争史 物語的記述
・トゥキディデス・・・ペロポネス戦争史 年代順に記述
一度の覚えられないですが、関連する項目を何度も確認する
自然と覚えることができますよ。

大学入試のための紛らわしい世界史12 紛らわしいローマ

roman-colosseum-1452516-640x480
今回はローマ史。
ローマ史の最初から、紛らわしい用語が登場します。

1.エトルリアとエストニア

前6世紀、先住民族のエトルリア人の王を追放して共和政を樹立します。

エストニアと間違わないように。

【エストニア】バルト3国の1つ。第1次大戦後独立。
第2次大戦後ソビエト連邦に併合されました。
1991年はソビエト連邦より独立しました。

2.グラックス兄弟とクラッスス

ポエニ戦争に勝利したローマは、貧富の差が拡大。
市民による重装歩兵が傭兵にかわり、軍隊の私兵化が進みます。

【グラックス兄弟】 兄ティベリウス(前162~133年)、弟ガイウス(前153~121年)。
兄弟であいついで護民官に就任。大土地所有制の制限・自営農創設を企てたが失敗。

「内乱の1世紀」と呼ばれる、混乱の時代へ。
やがて私兵を擁した門閥派のスラと平民派のマリウスが対立します。

【クラッスス】
スラ派の政治家。前73年ポンペイウスとともにスパルタクスの反乱を鎮圧しました。
カエサル、ポンペイウスと第1回三頭政治(前60~53年)を展開。
パルティア遠征中に戦死しました。

やがてカエサルはポンペイウスを倒し、ローマの実権を握ります。
しかし、ブルータスにより刺殺されます。

そしてカエサルの養子オクタウィアヌス、カエサルの部下アントニウス、レピドゥスによる
第2回三頭政治が展開します。

3. パックス=ロマーナ

【アントニウス】
カエサルの部下。
オクタウィアヌス、レピドゥスとともに第2回三頭政治を実現。
プトレマイオス朝の女王クレオパトラと連合しました。
前31年アクティウムの海戦でオクタウィアヌスに敗れ、自殺。

内乱の1世紀が終わり、オクタウィアヌスによる元首政(プリンキパトゥス)が始まります。
前27年 オクタウィアヌスは、元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の称号を受けます。

アウグストゥスは、アウグスティヌスと似ているので注意しましょう。

【アウグスティヌス】354年~430年
『神の国』『告白』の著したキリスト教の最大の教父です。

こうしてパックス=ロマーナ(ローマの平和)の時代を迎えます。
ローマの最盛期は五賢帝の時代(96年~180年)と言われています。
【五賢帝】
・ネルウァ
・トラヤヌス:ローマ最大版図実現
・ハドリアヌス
・アントニヌス=ピウス:ローマ帝国史上最も平和な時代。
・マルクス=アウレリウス=アントニヌス:
五賢帝の最後の皇帝。ストア派哲学者として知られ、「自省録」を著しました。
哲人皇帝と呼ばれています。

その後、ローマ帝国には異民族の侵入が激化します。

アントニウスと五賢帝のアントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌス
名前が似ているので注意が必要ですね。

大学入試のための紛らわしい世界史13 キリスト教史 成立~迫害

holy-bible-1442665-640x480

今回はキリスト教史の紛らわしい用語を整理しましょう。

1.キリスト教の成立

キリスト教が生まれたのは、パレスチナ地方です。
パレスチナは、第1回三頭政治の1人ポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼし、
ローマに支配されるようになりました。
パレスチナ地方では、一神教のユダヤ教が信仰されていました。
ユダヤ教の内部は、親ローマ的な神官、パリサイ派と呼ばれる学者たちや禁欲的な人々に分かれていました。
禁欲的な人々からバプテスマのヨハネというユダヤ教の改革派が登場しました。

このヨハネに影響をうけ、パリサイ派を批判し、自らがメシア(救世主=キリスト)と主張したのが、ナザレのイエスでした。
イエスは、ローマへの反乱者として処刑されました。
イエスの死後、イエスの復活を信じる人々によって、キリスト教が成立しました。

【バプテスマのヨハネ】
イエスに影響を与えたユダヤ教改革の先駆者。
イエスにヨルダン川で洗礼を施したと言われています。

同しヨハネでも
【ヨハネ】
イエスの12人の弟子のひとり。
新約聖書に収録されている『ヨハネによる福音書』を著したと言われています。

2.キリスト教の伝道と新約聖書の成立

ペテロやヨハネなど12人のイエスの弟子たちの活動や
異邦人(ユダヤ人以外の人々)伝道に力をつくしたパウロによって
ローマ帝国内へキリスト教は浸透します。

【ペテロ】
イエスの12人弟子(使徒)。ペテロの活動により教会が誕生しました。
ローマ皇帝ネロの迫害によって十字架に逆さに磔になり、殉教します。
初代ローマ教皇とされています。
【パウロ】
ユダヤ人以外の異邦人への伝道を尽くしました。その後ローマに伝道中、ネロの迫害で殉教したと伝えられています。パウロの伝道活動や各地の教会へあてた書簡は新約聖書に収録されています。

新約聖書は、ギリシア語で書かれ、4つの福音書と使徒行伝、パウロの書簡などで2~4世紀ころまとめられ、旧約聖書とともにキリスト教の経典となりました。

3.ローマ国内での迫害

キリスト教徒は、ローマ皇帝の崇拝を拒絶したため迫害をうけました。
64年のネロ帝の迫害、303年ディオクレティアヌス帝の迫害が有名です。
しかし、キリスト教徒たちは地下教会(カタコンベ)で信仰をしつづけます。
やがてローマ帝国は、キリスト教を禁止して国内を維持できないようになっていきます。

名前が似ているので注意しましょう。
【ディオクレティアヌス帝】
303年キリスト教徒を迫害
【テオドシウス帝】
392年キリスト教を国教化します。

大学入試のための紛らわしい世界史14 キリスト教史 ローマ帝国による公認~発展へ

ancient-church-1540539-640x480

キリスト教史に続きです。

1.キリスト教公認

ローマ帝国内では、303年ディオクレティアヌス帝による

キリスト教徒への激しい迫害がありました。

しかし、迫害の効果はありませんでした。

コンスタンティヌス帝がローマ皇帝になります。

そしてコンスタンティヌス帝は

313年 ミラノ勅令発してキリスト教を公認します。

2.ニケーア公会議

一方、キリスト教内部では、

神とイエスの関係などで論争が続いていました。

325年コンスタンティヌス帝はニケーア公会議を開催します。

そこで、アタナシウスが主張する神と神の子と聖霊は1つのものであるという

三位一体説が正統な教義となり、

イエスの神性を否定したアリウスの主張は異端とされました。

アリウスはローマ帝国外に追放され、アリウス派はゲルマン人伝わります。

3.キリスト教の国教化

その後もユリアヌス帝がギリシア・ローマの神々を復興図るなど

キリスト教を迫害する皇帝が登場しました。

しかし、キリスト教はカトリックが成立。キリスト教の抑圧は成功しませんでした。

392年 テオドシウス帝はキリスト教を国教化し、他の宗教を禁止しました。

このキリスト教の国教化は、キリスト教の拡大に寄与します。

アウグスティヌス(354年~430年)が『神の国』『告白』の著し、

のちのキリスト教神学へ大きく影響を与えます。

4.エフィスト公会議

キリスト教では正統と異端の論争は続いていました。

キリスト論でネストリウス派がおこります。

431年エフィスト公会議で、ネストリウス派は異端されました。

ササン朝ペルシアを通じ中国の唐に伝わり、ネストリウス派は景教と呼ばれました。

5.カルケドン公会議

さらに単性説がキリスト論で唱えられるようなりましたが。451年カルケドン公会議で

異端されました。

単性説は、エジプトのコプト派で奉じられ、北アフリカ、シリアに伝わりました。

まとめ
ローマ皇帝の名前の混乱を注意しましょう。
【ディオクレティアヌス帝】→キリスト教を迫害
【テオドシウス帝】→キリスト教を国教化

【コンスタンティヌス帝】→ミラノ勅令でキリスト教を公認
国教化したのは、テオドシウス帝なので注意。

【ユリアヌス帝】→キリスト教公認後キリスト教迫害したローマ皇帝。
【ユスティニアヌス帝】→ビザンツ帝国の皇帝、ローマ法大全を編集。

公会議
【ニケーア公会議】→アリウス派が異端。アリウス派はゲルマン人へ伝播。
【エフィスト公会議】→ネストリウス派が異端。中国唐へ。
【カルケドン公会議】→単性説が異端。コプト派。

中国唐に伝わった宗教(唐代3大異教)
・景教→ネストリウス派
・祆教→ゾロアスター教
・マニ教
同時期イスラム教も唐へ伝わっています。

キリスト教を迫害したローマ皇帝と、公認、国教化した皇帝の名前
公会議で異端とされた派の名前
をしっかりおぼえましょう!

大学入試のための紛らわしい世界史15 中国の官吏任用制度 科挙の誕生

traditional-fishing-yangshuo-china-1249242-640x480

中国の役人になる制度は、さまざまな時代にいろいろな名称で実施されていました。

1.古代の官吏任用制度

(1)前漢 武帝の郷挙里選(きょうきょりせん)

前漢 7代皇帝武帝は 郷挙里選を実施しました。

これは、地方長官の推薦で官吏の任用を図りました。

そのため地方の有力者で豪族の勢力が拡大しました。

13代哀帝は豪族を抑制するための土地と奴隷の所有制限する

限田法を実施しました。しかし、豪族のため無力化しました。

(2)魏 文帝の九品中正(九品官人法)

きゅうひんちゅうせい(きゅうひんかんじほう)と読みます。

魏の初代皇帝 文帝は曹操の息子の曹丕です。

広く人材を集める目的で実施されました。

地方にいる中正官が人材を9品に分けて推薦する制度でした。

しかし、

中正官も豪族であったことから、有力豪族の子息を推薦するようになりました。

その結果、豪族が官位を世襲する門閥貴族となりました。

「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われるようになりました。

なお、この制度は、西晋、南北朝まで継続します。

※九品中正を始めたのは、北魏の孝文帝ではないので注意。

(3)隋 文帝 科挙

北周の外戚楊堅が、北周を滅ぼし、隋を開きました。

※楊堅の「楊」は木へんですが、2代目の煬帝の「煬」は火へんなので注意

楊堅は隋の初代皇帝文帝となりました。

文帝は門閥貴族の勢力を抑えるため九品中正を廃止し、

試験による官吏任用制度「選挙」を始めました。

この選挙はのちに科挙と呼ばれるようになります。

また科挙は元の時代に一時廃止されますが、清朝まで継承されます

しかし、

隋、唐代では、貴族の力が強く科挙を受けずに官吏になるものが多くいました。

2.科挙の完成

北宋のころになると、従来地方で行われていた州試と尚書省礼部での省試に、

皇帝自ら試験官としてなる殿試が追加されました。

この結果皇帝と官僚の結びつきが強化され、皇帝独裁体制が強固なものとなりました。

科挙には受験資格はありません。

しかし

受かるためには、幼少のころから受験勉強をしなければなりません。

そのため、裕福な新興の地主(形勢戸)の子息が科挙を受験しました。

そして官僚出した形勢戸は官戸と呼ばれ、徭役の免除など特権が与えられました。

こうして形勢戸は、支配層である士大夫層を形成しました。

まとめ

・前漢 武帝 郷挙里選
・魏 文帝 九品中正 (北魏の孝文帝、隋の文帝との混同注意)
・隋 文帝 科挙
・北宋 殿試 皇帝独裁体制が強固なものとなり、科挙の完成したと言われています。

大学入試のための紛らわしい世界史16  中国の官吏任用制度~科挙の廃止

d3d82b5911e382e9359ff193e48382ba_s

今回は、中国の官僚になるための試験、科挙の廃止についてまとめます。

1.宋の滅亡

科挙を完成した宋の8代皇帝徽宗と9代皇帝欽宗が金の捕虜となりました。
これを靖康の変といいます。
これにより1127年宋(北宋)は滅びました。

なお、靖康の変と名前が似ているのは、靖難の役(1399~1402年)。
それは、 明の時代 燕王朱棣(しゅてい)が建文帝の諸王抑制政策へ反抗し、挙兵。
帝位について永楽帝となった事件です。

同年南京に逃れた宋の皇族高宗が即位。
宋が復興します。ここから始まる宋を南宋といいます。

南宋も1276年、フビライ=ハンが即位した元に臨安を占領され滅ぼされました。

2.科挙の廃止と復活

元は、宗教には寛容でしたが、儒教は冷遇しました。
儒者は、乞食に次いで卑しい身分とされました。
官僚には、モンゴル人と色目人(ウイグル人やタングート、テュルク、イラン系の人々)を優遇しました。
そのため、科挙は廃止されました。
しかし、
1313年元の4代皇帝仁宗により科挙は復活しました。

3.その後の科挙

元のあと中国を統一した明・清でも科挙は継続した実施されました。

19世紀になり、アヘン戦争、アロー戦争の敗北、太平天国による内乱など
西洋文明にいる近代化が叫ばれるようになりました。

1861年西太后と恭親王が中心となり近代産業の育成と富国強兵による清の再建が企図されました。
近代兵器工場の設立、北洋艦隊の創建、紡績業、製鉄、電信、鉄道などの産業の育成
外国語学校の設立などされました。
これを洋務運動と言います。主導したのは、曽国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)、左宗棠(さそうとう)の漢人官僚でした。
ただ、洋務運動は中国の伝統的道徳倫理を基礎に、西洋技術を利用するものでした。
儒者にもとづく制度は変わっておらず、科挙は継続して実施されていました。

洋務運動のよって、同治中興と呼ばれる一時的な安定期を迎えました。
しかし、1884年~1885年の清仏戦争、1894年~1895年の日清戦争で挫折しました。

ちなみに日清戦争と(清仏戦争)で挫折したのが、洋務運動。
日清戦争の敗戦によって、立憲君主制への政治体制の変革を唱えたのは変法運動。

変法運動のもとに康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)が政治改革を実施しました(戊戌の変法)が、西太后、袁世凱らによって弾圧されます。

義和団の乱後、革命を抑えるための国政改革の光緒新政が始まります。
1905年袁世凱らの時代に合わないという進言によって
隋時代にはじまった科挙は廃止されました。

まとめ

科挙は元時代には一時的に廃止、
1905年清の光緒新政時廃止されました。

大学入試のための紛らわしい世界史17 中国の穀倉地帯

tea-plantations-1393567-640x480

1.はじめに
宋の時代と明の時代、中国の穀倉地帯は、長江の流域にありました。
この流域の変化が、入試で狙われます。

ちなみに、「江浙(こうせつ)熟すれば、天下足りる」は宋時代のこと。
「湖広(ここう)熟すれば、天下足りる」は明時代のことです。

2.宋時代の長江下流域

長江下流域は、「江浙熟すれば、天下足りる」または「蘇湖(そこ)熟すれば、天下足りる」と言われた宋の穀倉地帯でした。
江浙とは、江蘇(こうそ)と浙江(せっこう)の略語です。蘇湖という場合は江蘇省蘇州と浙江省の湖州の略のことを言います。
水稲栽培技術の革新とともに、ベトナムから早稲種の占城稲(チャンパー米)が入り、2期作が行われるようになりました。
同時に麦を裏作とする2毛作が行われるようになり、長江下流域は農業生産と経済の中心となりました。

なお、南宋が金に華北を奪われながらも150年国を維持できたのも、長江下流域の穀倉地帯を維持できたためです。

さらに商品作物の栽培や手工業生産もさかんに行われるようになります。
茶は、全国に茶館が作られ、これに目を付けた宋が専売制性を実施しました。宋周辺の民族にも茶は普及し、重要な貿易品なりました。
日本に喫茶の習慣が伝わるのは、鎌倉時代の初期。禅僧の栄西が伝えました。

3.明時代の長江中流域

明代の長江中流域は、「湖広熟すれば、天下足りる」と言われる穀倉地帯になりました。
湖広とは、湖南(こなん)省と湖北(こほく)省の両省の略です。

宋時代以降、長江下流域は穀倉地帯だったと紹介しました。そのため、税金や小作料の負担が大きくなりました。そこで長江下流域の農民たちは、その支払いのため綿織物、絹織物を副業としてはじめました。すると綿花と桑の栽培のため、水田栽培を止めるようになりました。
そのため、長江下流域に頼っていた穀物生産を他地域に頼ることとなり、15世紀の明時代の穀倉地帯は湖広を中心とする長江中流域へ移って行ったのでした。

長江下流域は、綿織物、絹織物、お茶の栽培、陶磁器が生産されるようになり、明末から清にかけて商工業地として発展していきました。なかでも絹織物、陶磁器が、ポルトガルや日本へ輸出されるようになりました。

まとめ

・宋の時代の穀倉地帯は、長江下流域の江浙地方のことです。
・明の時代の穀倉地帯は、長江中流域の江浙地方のことです。
・明代末~清にかけて長江下流域は商工業地域として発展します。

大学入試のための紛らわしい世界史18 中国の税制 両税法・一条鞭法・地丁銀

silver-money-1-1583012-640x640
今回は前回の続き。中国の土地制度と税制の変遷です。

地味ですが重要なテーマです。整理しておきましょう。

1.均田制の崩壊と両税法

唐の社会が変わり、農民の足りなくなります。
と同時に兵も不足します。
また租庸調による税収も減少します。

そこで、723年募兵制度を開始し、748年府兵制を廃止します。
また、異民族の備えとして710年河西節度使を設置します。
この節度使は、募兵の指揮官のことです。

8世紀後半、宰相の楊炎が、両税法を提案実施されました。
なお、このころは安史の乱(755~763年)より後です。
楊炎が宰相を務めたときに皇帝は9代皇帝徳宗。
8代皇帝の玄宗ではありません。

両税法は、所有している土地や資産に春と秋の年2回課税します。
資産税の一種です。
この両税法は、明代後半まで中国の税法として使われ続けました。

2.一条鞭法(いちじょうべんほう)

唐が滅び、五代十国の混乱期、宋による再統一、金、元による中国統一と
中国の王朝は入れ替わりますが、この間両税法は中国の主たる税法の地位にありました。
さらに元を追い出し、中国を統一した明(1368年)でも
14代万暦帝のころまで両税法によって徴税されていました。

明の時代は北虜南倭(ほくりょなんわ)の侵略があり、明の軍事費は増大していました。
しかし、14代万暦帝の頃は東モンゴルタタールと和平をし、軍事費を節約できました。
この頃、内閣大学士の張居正が、両税法の代わる税制として一条鞭法が実施、普及しました。
【注意】
一条鞭法が実施されたのは明の初代皇帝洪武帝でなく、14代の万暦帝のころです。
だから洪武帝の作った土地台帳魚鱗図柵は無関係です。

一条鞭法は、成人男子への人頭税(丁税)と耕作地に課す地税(資産税、土地税)を
銀で納めさせたものでした。
銀が使われたのは、明にメキシコ銀、日本銀が流れこんだ結果でした。

3.地丁銀(ちていぎん)制

明の将軍李自成の反乱によって1644年明は滅亡します。
清の4代皇帝康熙帝は、明の皇族、遺臣を倒し中国を統一します。

康熙帝は、成年男子に課していた人頭税を、耕地に課す地税に繰り込んで一本化しました。
人頭税は廃止となりました。
これが、一条鞭法に代わる、地丁銀制です。

なお、地丁銀を納めるのは成年男子で、土地所有者です。
ですから佃戸(でんこ)、小作人は納めませんでした。

【まとめ】

均田制以降の税法
・両税法  唐の時代に開始。資産に春秋年2回課税。
・一条鞭法 明代に開始。 地税と人頭税を一括し銀で納付。
・地丁銀  清の時代に開始。地税に人頭税が含まれる。人頭税を廃止。
となります。

大学入試のための紛らわしい世界史19 イスラムにおける税制

arab-old-culture-1179152-640x480

イスラムの税制は、時代によって課税対象が変わります。
この変化が入試では狙われます。

1.アラブ帝国(正統カリフ時代~ウマイヤ朝)時代の税制

アラブ帝国の征服地への支配姿勢は「コーランか剣か納税か」でした。
アラブ帝国が征服した地の民族の宗教、習慣などには寛容で
ユダヤ教、キリスト教の啓典の民(ジンミー)は納税と引き換えに
改宗が強制されず、その資産や慣習も保障されていました。
その後、ジスヤを払えば、ユダヤ教、キリスト教以外の異教徒は
イスラム教への改宗が強制されませんでした。

税の種類は
・ジスヤ・・・異教徒(非イスラム教徒)に課した人頭税
・ハラージュ・・・地租土地に課した税金です。
【注意】
人頭税は、人ひとりに対して「いくら」と決まった税金かける方法です。
ジスヤの「ジ」は人頭税の「じ」と覚えておきましょう。

正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけて、アラブ人はジスヤもハラージュも支払わない
免税特権を持っていました。
しかし、アラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)とイスラム教ではない異教徒は
ジスヤとハラージュを課税されていました。

2.イスラム帝国(アッバース朝)の税制

ウマイヤ朝では、アラブ人が優遇されていたため、アラブ人以外のイスラム教マワーリー
が不満を持ちました。

このマワーリー、シーア派イラン人が協力し、750年アブル=アッバースによって
ウマイヤ朝は打倒されました。

アッバース朝では、この協力があったためウマイヤ朝の
もとでは差別されていたアラブ人以外のイスラム教徒の差別が解消されました。
この差別解消とはアラブ人の特権を廃止したことでした。
具体的には、マワーリーへのジスヤを廃止しました。
また、アラブ人の土地所有者へ地租を課すようになりました。

アッバース朝はイスラム帝国として発展していきます。

3.イクタ―制の創設

アッバース朝の成立に協力したイラン人は、重く用いられました。
そのため、イラン人の総督(アミール)が実権を掌握するようになりました。

なかでもブワイフ朝は945年アッバース朝の首都バグダッドを占領。
アッバース朝より大アミールの称号をもらいます。

イスラムの各王朝では、軍人には現金で給与を与えていました。
しかし、収入が減少し軍人たちへ給与を払えなくなりました。
そこでブワイフ朝では、イクタ―制が創設されました。

イクタ―制とは、軍人に地租の徴税権を与え、代わりに軍人に軍役を課す
イスラムの封建制度といえるものです。
このイクタ―制はセルジューク朝に引き継がれました。

まとめ

・正統カリフ時代からウマイヤ朝時代、アラブ人は免税特権を持っていました。
・アッバース朝時代、アラブ人の免税特権が廃止。イスラム教徒間は平等になりました。
・イクタ―制がブワイフ朝で創設され、セルジューク朝で継承されました。

スポンサーリンク
広告代
広告代

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする