観光地で見つけた、意外な史跡

観光地で見つけた、意外な史跡

日本一(元)の低山に秘められた歴史

大阪市、海遊館の近くにある標高4.5mの二等三角点まである山、天保山は、2014年4月まで、国土地理院の地形図でも、日本で1番の低山でした。(現在の日本一は、東日本大震災の津波により山が削られ低くなった標高3mの仙台市「日和山」)

天保山は、江戸時代の河川浚渫で造られた時は20mの高さがあったそうですが、幕末にロシア船来寇を警戒して造られた砲台のため、7mになり、その後地盤沈下等で現在の標高になりました。

この砲台ですが、口径29センチ、青銅製の150ポンド砲を、薩摩藩が鋳造し、設置されたと伝えられています。

実はこの大砲、ウィキペディアには東京、靖国神社の戦史博物館「遊就館」に展示と記載されいますが、調べてみると、薩摩藩(鹿児島県)にも幕末には同じ天保山という山に砲台があり、展示物は薩英戦争時の砲戦に使われたものだとも言われています。

この大砲が、鹿児島の天保山にあったのか、低山の大阪府天保山にあったのかは、定かではありません。

でも、そんな歴史を知ったうえで、この山を(天保山公園内にちゃんと山頂までの登山路もあります)歩いてみるのも面白いでしょう。

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網走の貝塚はレアな文化遺産

網走市の中心市街から、網走川を北にわたった海岸寄りにある、モヨロ貝塚は、アイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから名づけられた、ギリヤーク人のオホーツク文化遺跡です。

網走駅から車では5,6分ですが。夏でも涼しいので、網走川の橋を渡って歩くのも面白いと思います。

ちょっとわかりにくい場所ですが、曲がり角に看板があり、駅から15分くらいで、「先住民族の遺跡」という看板とフェンスで覆われた一角に到着します。「土の家」という当時の住居跡が残っていました。

100年ほど前に東京の考古学好きの床屋さんが発見したこの貝塚は、当時は数十メートルの規模で貝殻層が露出し、その規模に驚いた発見者の床屋さんは網走に移り住んで床屋を開業しながら、考古学研究を続けたそうです。

今は林の中で、当時の面影はありませんが、付近の高台に、「モヨロ貝塚館」という資料館があり、当時の地層を再現した展示などもあります。

展示によるとオホーツク文化というのは、800年くらい前に突然消滅したアイヌとは異なる謎の古代文化と言われているそうです。

旅行会社のパンフレット等にはあまり大きく取り上げておらず、観光シーズンでも遺跡や資料館周辺は閑散としていますが、全国でも他に類を見ないユニークな史跡ですので、考古学に興味のある方は是非ご覧ください。

奥会津にひっそり佇む戊辰戦激戦地

幕末時、戊辰戦争の激戦地だった鶴ヶ城のある会津若松市から西に約50キロ、福島県大沼郡の昭和村にも戊辰戦の史跡があります。

昭和村は珍しいからむし織の伝統が残る村として知られ、道の駅「からむし織の里しょうわ」では、からむし織作成の実演や博物館もあります。

その道の駅から北に車で20分ほど走った矢の原湿原に、官軍と会津藩の戦いの跡が残っています。

矢の原湿原は、約8万年前に出来た日本で二番目に古いという高・低層湿原で、モリアオガエルや希少なトンボ、数百種の植物が観察できる矢の原沼を中心とした湿原で、周遊ハイキングコースもあります。

この沼の入り口近くに、代官清水という湧き水があります。

昭和村には、多くの名水スポットがあり、国道400号沿いの湧水出口は、大きなポリタンクを用意して水汲みする車が並ぶこともあります。

この代官清水も水量が豊富で、やはりファンが多いらしく、水汲みの自家用車が良く止まっていますが、そのすぐ近く、道の反対側に戊辰戦争の史跡があります。

「1868年9月、明治政府軍は今の南会津町田島方面からの会津藩軍の奇襲で敗走し、それを追った会津朱雀三番寄合組隊が、この場所で逆襲にあい、会津藩軍の野村新平が戦死・・・」という「野村新平 墳墓の地」という碑文が立っています。

この場所から車で数分の大芦集落周辺には、「官軍9名戦死」の墓や会津藩士戦死2名の墓もあり、150年前の激戦が思い起こされます。近くには、あの土方歳三が鶴ヶ城入場時に通った街道もあり、今は高齢化の進む静かな奥会津の村も、明治維新前後には、激動の波が押し寄せていたようです。

世界遺産白川郷の近くに眠る埋蔵金?

岐阜県飛騨地方の世界遺産白川郷には、毎年多くの観光客が集まり、知名度の高い世界遺産の一つです。

その合掌造り家々のすぐ近くに三方崩山(さんぽうくずれやま)という変わった名前の山があります。この山は、M 8級の天正地震(1586年)による山体崩壊で出来たといわれる崩落跡があり、今も一部にその爪痕である白い山肌が見えます。

この地震で白川郷では民家数百軒が埋まったそうですが、当時「帰雲山」と呼ばれた三方崩山の直下には、戦国時代白川郷から越中まで勢力範囲を持っていた内ケ島氏の居城「帰雲城」があり、城下に崩落土が押し寄せ、城主内ケ島氏一族を含む領民が、350mの地層下に埋没したという「帰雲城伝説」があります。

何故「伝説」かというと、この内ケ島氏、所領内に多くの金鉱を持ち、城には多量の金塊があった筈だという言い伝えがあるからです。

確かに、江戸時代にも所領近辺に幾つかの鉱山が残っていますし、内ケ島氏が室町から戦国にかけ、かなり富裕だったことは、領内の寺院規模や足利幕府等への献金資料からなどからも裏付けられています。

ということから、この山は古くから埋蔵金探しで多くの人が発掘を試みていますが、まだ城下町の一部さえ発見されていません。

最近では、城下町のあった帰雲山は別の山だったではないかという疑問も出ていますが、この三方崩山の大規模崩落の跡を見るたびに、あの下に城下町と金銀小判がザクザクあるのでは、という想いが湧く人も多いようです。

伊勢神宮のすぐそばに遊郭

日本人の心のふるさと、伊勢神宮は、内宮も外宮も広い境内全体が厳かな雰囲気に包まれ、敬虔な気持ちを持つ人も多い静謐な聖地です。

この伊勢神宮の外宮と内宮の丁度中間辺りの丘陵に、江戸時代には、江戸の吉原、京都の島原に並ぶ、日本三大遊郭の一つと言われる古市遊郭がありました。

今では、当時からの旅館はほとんど残っていませんが、お伊勢参りが盛んで日本中から伊勢神宮への参拝客が押し寄せた文政年間には、多くの参拝者が、「精進落とし」と称して遊郭に立ち寄ったそうです。

当時のお蔭参りの規模は、多い時期には、約400万人(当時の人口の12%)ともいわれ、古市遊郭には最盛期70軒を越える旅館や見世物小屋が立ち並び、大きな店では大広間で有名な伊勢音頭を披露して、客を愉しませたそうです。

当時の大妓楼跡の碑が立つ道筋の近くに、市立「伊勢古市参宮街道資料館」もあります。当時の大店「備前屋」は、その頃大人気だった「東海道中膝栗毛」に対抗して、「伊勢名物通神風」という日本最初の商業チラシを、歌川国直の浮世絵と、人気作家式亭三馬により作成し配布しました。

お陰参りの集団参詣人の中には、お伊勢参りより、この古市遊郭を目当てに遠路はるばる伊勢の国にやってきた人も多かったそうです。

楽しい史跡探し

これまでご紹介した史跡以外だけではありません。

観光地をのんびり、ぶらぶら歩いていると、目立たない石碑や看板にも、意外な史跡の案内が見つけられます。

観光地をゆっくり歩く機会があったら、是非足を伸ばして、こうした史跡もめぐってみましょう。

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