NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公「杉文」の兄、吉田松陰とは?

花燃ゆ

大河ドラマを楽しむには歴史の知識が必要です。

今回は「花燃ゆ」の舞台である幕末についてわかりやすくお話しします。

「幕末ってどんな時代?」

幕末とは今から160年前、江戸時代の終わりをさします。そのころの日本は鎖国政策をとっていました。

それは、外国への渡航禁止・大型船の造船禁止・キリスト教の布教信仰の禁止・海外渡航の禁止などをさします。しかし、徳川幕府は長崎の出島でオランダや中国と貿易を行い利益を得ていました。

日本の近海に外国船がしばしば現れるようになり、各地の大名は西洋の技術の素晴らしさや貿易で利益を得ることができることを知るようになりました。また同時にアヘン戦争で上海が植民地になってしまったことを知りました。もちろん、このような情報を得ていたのは一部の知識人だけです。「花燃ゆ」に登場する吉田松陰はそんな知識人のひとりでした。

国内では飢饉で餓死者が出たり病気が流行ったりと厳しい状況でした。そんな中で大塩平八郎の乱が起こり、一揆や打ちこわしがしばしば起こりました。また、財政の悪化などのため、社会に不安が広がっていました。

徳川幕府はアメリカに迫られている通商条約締結について、全国の大名に意見を求めました。幕府が大名に相談することなどこれまでなかったことだったので、それ以後、大名や朝廷は政治への発言力を強めたのでした。

そんな中で世論は「開国論」と「攘夷論」とに分かれました。そこに将軍の後継問題が重なり、慶福(のちの家茂)を支持する紀州派と慶喜を支持する一橋派とが対立しました。

そんな中、紀伊派の老中井伊直弼が日米修好通商条約に調印しました。しかし、このことは朝廷の許しを得ていなかったという理由で、大名や朝廷は大いに反発しました。

そんな時、井伊直弼は一橋派や尊王攘夷派の人々を弾圧しました。「花燃ゆ」の主人公「杉文」の兄である吉田松陰は、これに関連して獄死しました。
それが、安政の大獄です。
この強圧政治は尊王攘夷派の激しい反発を招きました。

この時、全国の下級武士・豪商・豪農など、今まで力を持たなかった人達が勢力を伸ばしました。「花燃ゆ」に登場する「杉文」の夫、久坂玄瑞は尊王攘夷を掲げる下級武士でした。

このように、日本国内に不安が広がり対立が明らかになるという時代に入っていきます。

さて、今の山口県である長州藩は藩の政策を尊王攘夷とし、京都の朝廷の周辺で活動を展開していきます。しかし、禁門の変で京都を追われ朝敵とされます。それより先に、攘夷を実行するとの考えで関門海峡の外国船を攻撃するという事件を起こしていました。長州藩は幕府にも外国にも攻撃されるという危機的な状況に陥ります。

「花燃ゆ」の舞台である長州藩にとっての幕末は、そんな八方塞がりの状況だったのです。

スポンサーリンク

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公「杉文」の兄、吉田松陰について

吉田松陰ってどんな人なのでしょう?

吉田松陰は今の山口県である長門の国(ながとのくに)の城下町萩に産まれます。父は杉百合之助、母は滝(滝子)です。通称は寅次郎といいました。

杉家には兄梅太郎がいたため、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になりました。だから、名字は杉ではなく吉田なのです。しかし、その叔父が亡くなってしまいます。

吉田松陰は、叔父の玉木文之進に教育を受けます。それは厳しい指導だったようです。

子どもであっても山鹿流兵学の師範でしたので、藩主のために講義を行います。その講義はただ暗誦したものではなく、質問にも答えられる素晴らしいものでした。松陰の才能はこの時に認められました。

藩主に認められた松陰は、江戸で遊学しました。当時、身分の高い武士は藩主の参勤について江戸に行き、武芸や学問を学んだものでした。

西洋列国による日本への接近が繰り返された頃、松陰はアヘン戦争で当時の中国である清が植民地となっていることを知りました。そこで、津軽海峡を通行する外国の船を見学したり、その地でどのような防衛が行われているのかを知りたいと考えました。それで友人たちと東北旅行を計画しましたが、長州藩が通行手形を発行するのに手間取りました。しかし、友人との出発の約束を破ることはあってはならないと考え、手形を持たずに出発しました。それは、当時の常識では脱藩するということでした。旅行を終えた松陰は武士の身分を失い、世禄没収という厳しい処分を受けました。

今でいうリストラのようなもの。それでも藩主は松陰に目をかけ、遊学を許しています。藩主に愛された幸せな人だと言えます。

1854年ペリーが日米修好通商条約のため伊豆の下田に来た時のことです。松陰は金子重之輔と一緒に密航を計画し停泊中の船に乗り込みました。しかし、乗船は拒否されます。

その時、乗り捨てた小舟に恩師佐久間象山の手紙があったため、自首しました。その結果投獄されてしまいます。松陰は長州に送り返されました。

萩に帰った松陰は野山獄に幽閉されます。その後、杉家に帰り、叔父が教えていた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地に塾を開きます。

「花燃ゆ」では、松下村塾での教育の日々が取り上げられています。
ここでの門下生は吉田稔麿(よしだとしまろ)、久坂玄瑞(くさかげんずい)・高杉晋作(たかすぎしんさく)山県有朋(やまがたありとも)、伊藤博文(いとうひろぶみ)入江九一(いりえくいち)、前原一誠(まえばらいっせい)、品川弥二郎(しながわやじろう)、などです。高杉晋作は身分の高い武家の息子、伊藤博文は身分の低い中間の息子でした。身分の高い武士は藩校明倫館(めいりんかん)で学びます。高杉晋作は明倫館の学問に満足できず、松下村塾に通いましたが、祖父や父に大反対されていました。一方、伊藤博文などは明倫館に通える身分ではありません。身分制度のはっきりした時代、本来ならば出会うことのない人たちが松下村塾に集いました。それは、松陰の身分を問わないという新しい思想を持っていたからです。

松陰は世界の情勢を説き、時には感情を高ぶらせ声を張り上げて講義をしました。その講義に門下生たちは涙を流して感動したと言われています。また、ここでは身分が違っても議論を交わすことが当然のように行われていました。その中で、お互いを「ぼく」「きみ」と呼び合ったそうです。この呼び方には上下関係が反映されません。

その後、松陰は江戸に呼び戻されます。そこで老中暗殺の計画を企てたことを自首します。それに驚いた幕府は、江戸伝馬町において、吉田松陰を斬首刑としました。

享年30歳でした。

花燃ゆ
スポンサーリンク
ご協力よろしくお願いします

この記事良かったと思ったら次の記事を書く励みになりますのでシェアよろしくお願いします。

sin5275をフォローする
関連記事



役に立つ 知識だよ。生活 雑学 情報

コメント

タイトルとURLをコピーしました